月別アーカイブ: 2018年8月

2018年8月22日 2:38 CAT :

待ち人がついに現れないのもルリヲのせい

今年に入ってから、4回目のバーベキューを先日やった。

何と言うか、リア充のようじゃないかと、震えております。

今回なんか、パラソルさして、子どもたちが庭でプールに入ってるのを眺めながら、まったりとステーキを焼くという。それなんて言うリゾートみたいな感じだったし。

めっちゃ楽しかったし、美味しかったんだけど、それはそれとして、体重の方が気になって仕方がありませぬ。

能天気に行こうとしてるんだけど、それでは拭い切れないような不安も抱えつつ、今日も生きております。はい。

さてさて。

AIの進化は著しく、何となくオレの今やってるお仕事とかも、10年もすれば全部AIさんに奪われてしまうような、変な恐怖感に襲われていたりもする。

・・・するんだけど、それについて、「それは本当か?」と言う本を読んだはなしをば。

「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」と言う本。

これでございます。アフィなどは貼っておりませぬ。

この本によれば、実は、世の中にあるAIのほとんどは、本当のAIではない。

キーワード検索によってAIに見せかけた、似非AIであり、実は、そんな仕事を奪われるような恐怖を感じる必要はないとのこと・・・

ただ問題なのは、便利なツールが増えてきたことによる人間の能力の低下の方らしい。

前に読んでた「サピエンス全史」の中で、農耕が始まってから人類の脳はどんどん縮小しているという話を書いてあったけど、それに付随して、2000年代以降の特にスマホとかによって、人類のバカ化はどんどん拍車がかかっている。

と言う事で、ぱっとこのシーンが浮かんだ。

「一日外出録 ハンチョウ」の1シーン。

スマホを使ってお店を探してるやつの情報量。

スマホを使わない大槻班長の情報量。

・・・そりゃあ、バカになるわな。

確かに、食べログとかない頃は、まさにこの大槻班長のように、経験と知識量でお店を探し出して、お気に入りのお店によく行ったもんだ。

10年以上常連気取って通ってるインドカレー屋さんは、食べログじゃなくて、苦い思いもしながら、色んなお店を巡った結果自分で見つけた店だ。確かに。

便利になったと言う事と、それによって幸せになったと言う事はイコールではないと言う事なんだろう。

食べログで評価が高かった店に入って食べたご飯と、自分で探し倒してこれまでの経験と知識と勘でたどり着いた店で食べたご飯のどちらに感動があるかと言う話だ。

ネットで数クリックで買ったレアもののCDと大阪くんだりまで出向いた時に入った怪しい中古のレコード屋で偶然見つけたナゴムレコードのEPのどちらに感動があるかと言う話だ。

ヤフオクで1000円くらいで落札したサイン色紙とライブ会場で感動してメンバーさんに頼み込んでサイン描いてもらったCDのどちらに感動があるかと言う話だ。

自分の自分による知識と経験によって得られたものは、それの良し悪しに関わらず明らかに、自分の中に溜まっていく。

それを繰り返していくことで、人は成長していくし、能力を会得していく。

ただ、その部分はドラクエにおけるレベル上げみたいなもので、必ずしも楽しいものじゃない。

だから、その部分を便利なツールに任してしまいがちになるんだよ。

でも考えてほしい。レベル上げを自動でやってくれるドラクエをクリアーしても、きっとカタルシスなんて欠片も得られない。・・・と思うんだ。

AIって、確かに、今はまだ人類を脅かすほど進化してないかもしれない。

恐ろしいのは仕事をAIに奪われることじゃあない。

AIに人類が仕事を明け渡すようになることなんだ。

そのためにオレが出来ることは、食べログでお店を探さないこと。

すぐにSIRIに聞かないこと。

自分の考えと足で経験を積むこと。

とか、その辺なんだろうね。

分かってはいるけれども、どっぷり便利危機に包まれてしまったオレは、戻ることが出来るのでございましょうか・・・

すでにマンガも、簡単に描けるデジタルに移行してしまってるわけですよ。

トゥービィーコンティニューと言うやつだ。

この記事を見てみる  ⇒
2018年8月17日 2:22 CAT :

Get back to where you once belonged

お久しぶりです。

とか、毎回そんなことばっかり言ってるような気がしております。

光陰矢の如しとは、ホントよく言ったもんだよね。

色々あった。まぢで、色々あったんだよ。

取り合えず、生きております。

お仕事も順調と言うかなんというか・・・今日も今日とて生き延びて、誕生日も過ぎておりました。

新しい1年の豊富とかもないまま、生きてきたんだけれども、もうニートと呼ばれない年になった。

会社と言うものから離れて、事務所の代表と言う形でお仕事を始めてきて何年か経とうとしている。

今、仕事を失ったとしたら、もうニートとも呼ばれない。ただの無職おっさんなんだ。

そんなこんなで、このブログも10年以上超えて、今更ながら初心に戻ろうと思った次第でございます。

Get back to where you once belonged

と、50年以上前に偉大なバンドさんが歌っておりました。

ここ数年、ただの日記と化していたこのブログだけれども、そもそもは、溢れ出て止まらない頭の中をぐるぐる回るどうしようもない個人的なプロバガンダ的な意味合いを込めた言葉をアウトプットすることを目的として始めたもの。

先日より、とある場所で講義の講師と言う新しいお仕事をさせてもらっております。

お仕事で、報酬もちゃんともらっているので、1~2時間程度の講義なんだけど、準備には、数倍の時間を使っている。正直な話、割は良くない。むしろ大変なことの方が多いんだけど、ただ、やりがいとかをかなり感じてて、しばらくは(と言うか、やらせてもらえるうちは)全力で頑張っていきたいと思っております。

昔、オレが教員免許を取るために教育実習に行っていたとき、恩師の先生は「10あったとしたら、授業で伝えれるのはそのうちの良くて3くらい」と教えてくれた。

まさに、それを今、実感している感じなんだよ。

数時間かけて、膨大なレジュメを作って、いざ講義が終わってみると、3どころか1くらいしか話せていない。

「あ~この話できなかったな」の方が圧倒的に多いという体たらく。

ただ、そういう形でのアウトプットを続けているうちに、至る所で自分の考えとかをひりだしていたかつての感覚を思い出してきたりなんかして、最近、頭が尋常じゃなく回り始めてるのもまた事実だったりする。

学生時代、普段の会話でディベートのように理詰めで追い詰めて、友人を泣かしてた頃を思い出すかのように・・・

そんなこんなで、講義のために準備した残りの9の話のうち、ブログとして残しておいてもいいんじゃねえの?と思うような内容を中心に、かつてあった形への原点回帰をお誕生日を迎えて考えてみた次第です。

と、ここまでで、すでに長くなってしまったので、次回から少しずつ書いていこう。

毎日とは言わない。

ただ、その講義が週に1回なので、その講義のために集めたネタのなから一つと言う事で、週に1回程度かけたらいいなと。

こんな大層なもんでは絶対なけどな。

この記事を見てみる  ⇒
2018年8月14日 2:25 CAT :

さらば、生かねばならぬ

先月の終わりころに、弟と口論になった。

結婚前、実家にいたころはそれこそ週に1回くらいは口論してた。

なのに、久々だった為か、お互いに耐性がなくなってしまってたのか、オレは言い過ぎてしまったし、弟は凹み過ぎてしまったような変な感じでぶつ切りに終了した。

多分、環境的な要因とか、疲れとか、単純な寝不足とか・・・色々原因はあったんだと思うんだけども、それにしても、「こんな感じで終わるのか~」と意外に思ったものまた事実。

まぁ、それは良いんだ。

もう終わった事だしな。

人にはそれぞれ考え方と言うものがある。オレだって30歳過ぎてさすがに今更、自分の考えを押し付けて、相手を泣かすようなことはしないです。

ただ、その内容について少しだけ・・・別に、このブログを弟が見てる訳じゃあないし、補足するとかそんなつもりもないんだけども、何となく、その時、凄い不十分な内容のまま終わってしまって、自分の中で不完全燃焼なので、ある程度キレイに吐き出せたら・・・とか、そんな動機でございます。

その内容と言うものが、そもそも「人の好意」とは存在するかと言う話が発展したものだった。

オレも確かに中二病全盛期には「人は全て悪意でできている」とか「オレは人からの愛情を受けることなく孤独に生きてきて、これからも生きていく」とか思ってた。「ぬくぬくと生きやがって」と、見下したような目で他人を見ていた。

でも、社会に出て10年以上・・・結婚もして、自分の家族を持った今、「人の好意」は絶対的に存在すると言う事がわかってきた。

家族・親族のような近しい人は当然として、それ以外にもありとあらゆる所でオレに関係する色んな人からの好意を受けに受けて、今日も、オレ(もしくはオレの家族)は、生きていけている。

そんな事をヒシヒシと感じてるからこそ、「この世に好意なんてない」と主張する弟に対して、いつになく声を荒げてしまったんだと思うんだ。

ここ最近弟とは、なんか「そうか。そうか。それで良いと思う。」で、別に口論するようなこともなかったのに・・・何となく許せなかったんだと思うんだ。

オレも色々ありましたよ。

社会に出てから10年以上、ホントに絶望することの方が圧倒的に多かった。

恨んでる・・・とは言わないけど、もう2度と会いたくない人もたくさんいるし、前職なんか、未だに会社への通勤路を車で走るだけで正気で居られなくなるくらい追い詰められた。

それでも、今の状況までやってこれたのは、色んな人に助けられたからとしか言いようがない。

人生においても、自分の思うように好き勝手出来る事なんてほとんどないと思う。

でも、それは、取り巻く人の数だけ考え方があり、そして、それぞれに意思があるからであり、全ての人が悪意的なものをもって、攻撃してくるからではないんだよね。

良かれと思ってやってくれている事が重なった結果、オレとしては、好き勝手出来なくなった。と言う事が多いのは事実だと思う。

その雁字搦め感が中二病のころは、許せなかったんだろう。

状況自体にはどうしたものかと思ったとしても、誰かに対して、敵対視するようなことはなくなった。

人は、なんで生きているのか。

哲学的にはよく出る話題。

なぜ生きているのか。と言われると、答えはすぐに出てこないかもしれないけれども、なぜ生きなければいけないのかと言われると、答えは意外と簡単だと思う。

好意と言う言葉が適切かどうかは知らないけれども、これまで好意を全身で受けて成長してきておいて、それを無為にして死ぬ事がどうしてできるか・・・。

望んで生まれてきた訳じゃあない。

好意なんて有難迷惑だと思ったり、好意なんて不要だ。死にたいと思う事もあるんだろう。

でも、それは本当に誰からも好意を向けられず、誰一人相談する人もいなくなって、死んでしまっても誰からも惜しまれず悲しまれず、かつ、遡っても「生きていて欲しい」と誰からも思われてない状況になって初めて思うべき事。

なぜか、ぱっと思い浮かんだ一場面・・・(↑)

それ以外の状況で思うようであれば、それはただの自己満足であり、むしろ、そう安易に思える環境や周りの人に感謝するべき。

オレも前職のホントに最後の方では、自殺すれば家族に迷惑がかかるから、暴走した車が突っ込んできてくれて死ぬことが出来れば、保険金が家族はしばらく食べていけるしいいよな。みたいな感じで、ずっと死ぬことばっかり考えてた。

会社なんてきつければ辞めれば良いだけだし、本当に困ったときには助けてくれる人もたくさんいたんだろうけど、追い詰められると、極端に視野が狭くなってそんな事は考えられなくなる。

周りの人の事とかも何にも考えられず、ただただ死ぬことばっかり考えてた。

今は、割と広めの視野で色んなことを見られる余裕くらいはあると思う。

望んで生まれ来たわけじゃない。誰からも疎まれている。早く死んでしまいたい。と毎日思い、カッターで自分を傷つけてたオレでも、今では、いろんな人に感謝しながら、今までもらってきた好意を今度は自分の子どもたちに向けて返していってる。

生まれてこなければ良かったとは思ってない。

幸せだとでっかい声で言うことはないけれども、本当に暗黒だった学生時代を含めても、悪くない人生だと思ってる。もちろん、今の段階での話だけれども。

取り合えず、弟に対してあの日言いたかったことは、「少なくともオレは、お前を大切な弟としてみてる」と言う話なんだよな。

そのオレに対してよく「この世には好意などない」とかよく言えたな。と。

結局、変な感じに歪曲されて伝わったみたいみたいだけども。

伝えるという行為も難しいものよ。

夜中に書いたので、凄く恥ずかしい内容になってる気がしないでもないけど、それもまた一興と言う事にしておきます。

この記事を見てみる  ⇒