月別アーカイブ: 2012年6月

2012年6月24日 22:04 CAT :

死の物語

ここん所、実に色々とあったりした。

それは、思いのほか別れが続く日々だったりもした。

まぁ、何しか、事故を起こしてしまいまして・・・幸いにも、相手方もオレも軽傷で済み、不幸中の幸いと言えるかも知れない。

(事故を起こした事自体は、ダメな事だけれども。)
そうそう。

色々とご心配おかけしました。

あと、色々心配してくれた皆々様にも、ついでに感謝しておきます。

でも、その裏で、オレの愛車だった「ひろみつ」君はひっそりと亡くなってしまった。

俗に言う、廃車だ。

もうかれこれ8年も乗ってた・・・らしい。

何気に、嫁と出逢うよりも前からのお付き合いだった。

彼との思い出は、思いのほかに沢山あり、それこそ痛い表現を使えば、オレの少し遅れた青春を一緒にすごし続けたヤツだったと思う。

そうなんだよ。

あれの時も、これの時も、それの時も、ずっと一緒だったんだよ。

まぢで。

運転がへたくそなくせに、荒い運転する事がかっこいいとか勘違いしてた、初めの頃にぶつけまくったり、脱輪しまくったりの傷もたっぷりあった。

しかも、それを板金ごと換えたりしなかったから、いつまでたっても、傷だらけだったし、仕事やらなんやら忙しくなると、すぐに洗車すらも怠るもんだから、随分と汚れてた時期が長かっただろうて。

今になると、もっともっと大事に出来たんじゃあないだろうかと、そんな事ばかり頭の中によぎる。

それでも、あいつは文句も言わずにずっとオレといっしょに居てくれたんだよ。

それを、オレの不注意で事故を起こして、廃車とは・・・

今日、廃車になる前に、車の中の荷物を取りに入って来た。

ホントに色んなものが出てきた。

納車したばかりの頃に、西讃中のダイソーをはしごして手当たり次第に買い集めた「マメ」とか、卒業旅行の時に買ったエロ昔話本とか、ジンちゃんにサインを書いてもらった時のマジックとか、ブーと釣りをしてた時の釣り竿とか・・・

しみじみと思う。

もうこんな思いはコリゴリだ。

これで、もし誰かが命を落としていたら、どうなってたんだ。

事故なんてするもんじゃない。

今回の件で、何よりその事が良く分かった。

まぢで。

今日で、「ひろみつ」くんに会うのは最後だから、写真も撮って来た。

でも、それはオレだけのもんだ。

あんな無残な「ひろみつ」くんを誰かに見せるわけにはいかない。

そして、その裏で、もう一つの別れもやってきていた。

ここ数カ月ずっと調子が悪かった「千田」の命を終わろうとしている。

結婚前まで、実家のオレの部屋には、植物たちの楽園(と勝手に思ってた)「植種台」と言う場所があった。

今の、植物集めの原点になるような場所だ。

そこを作るきっかけになった、一番初めにやって来たサボテン。

(嫁がプレゼントしてくれた)それが、「千田」だった。

「千田」とは、すごく仲良しで、「千田」はいつもいつも、太陽の方に伸びれば良いものを太陽に背を向けて、オレの居る方居る方に伸びてきていた。

そのあとに、「イモ太」や「ガジママ」、「ブニ男」などなど沢山植物といっしょに過ごすようになったけど、「千田」ほど仲良くなったヤツはいなかったと思う。

「千田」はやさしい奴で、それでいて男気のあるヤツだから、基本的に、調子が悪くなる時は、オレからは見えない方から体調を悪くしていく。

いつも、見つけるのが遅れてしまうけれども、それでも、時間をかけて、元気になり続けていた。

「千田」は過去に一度、死にかけた事がある。

結婚して、今の家に引っ越す時だ。

もしかしたら、その時「千田」は、もう自分の役目は終わったと思ったのかもしれない。

だから、静かに死のうとしたのかも知れない。

でも、半人前の二人の生活はなかなか安定しなかったもんだから、「千田」も、もう少し手を貸してくれたんだろう。

ホントに、奇跡的に復活した。

そして、今、実は、「千田」と出逢って2度目の変化の時に来ている。

「千田」は今度こそ、もう自分の役目は終わったと思ったような気がする。

だから、静かに静かに死んでいこうとしている。

オレは、それを認められなくて、捨てることが出来ないでいる。

でも、「千田」がそう思っているような気がする。

不思議と、「千田」が思ってた事は分かるような気がする。

ただのエゴだと言われればそれまで。

別に、信じてもらわなくても良い。

でも、「千田」の5年以上の付き合いの中で、今そう思うんだから、仕方がないんだ。

そう思った時、実は、「ひろみつ」くんとの別れも、似たようなものだったのかも知れないとさえ思うようになってきた。

今、頭の中では色々な思いが交錯している。

その全てを出しきるには、まだ時間がかかるだろうけど、分かっている事は、今、大きな変化の時の中に居ると言う事で、そして、「千田」も「ひろみつ」くんも、何かを教えてくれようとしている。

忘れる事はない。

かつてオレには、8年も一緒に居た。

どんなとこへ行くのも一緒だった車が居た事を。

かつてオレには、5年も寝起きを共にした、仲良しのサボテンが居た事を。

ここでひとまずのお別れだけれども、誰かが言ってた。

忘れなければ、いつまでも一緒に居ると。

新しい時間軸がはじまる。

新しい「彼ら」といっしょに。

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2012年6月10日 22:08 CAT :

ヨギナクサレ

ちょっと前に触れた「家事ダイエット」。

ただいま、割かし継続中だったりする。

いや、ホント家事って大変。

思った以上に体力を使うわ。

筋トレとかするヤツって、もしかしてバカなのか。

とか思ってしまった。

いや、腕の筋肉鍛えたければ、拭き掃除をやればいい。

(ついでに、雑巾とか絞れば、握力もつくし。)足腰鍛えたければ、家中掃除機でもかけながらうろうろすればいい。

小一時間も家事してたら、もうこの季節だと汗とかもにじんできたりする。

ウォーキングとかするよりよっぽど体力を使うんだよ。

まぢで。

でも、痩せない。

簡単な話だ。

それ以上に食べているからな。

さてさて。

ここ最近、テレビで出産ネタとかをたらふくやってる。

今年は、なんでも芸能界で出産ラッシュらしく、それに比例して、ママさんファッションだのなんだのと言うネタを連日色んなテレビとかで垂れ流している。

それをチョコチョコ見てて、ホント不愉快になる。

取り合えず、「東尾理子」だ。

あいつは、近年稀に見るアホだと思う。

羊水は腐っていないだろうけど、脳髄は腐っているみたいだ。

子どもがダウン症の可能性がある事を出産前の段階で自ら公にリークするとか、正気の沙汰とは思えない。

これから、「障害のある子どもを持つママさん」キャラで芸能界を渡り歩こうとか考えているのか、それとも、何も考えてないアホなのか知らんけど。

一体その情報をこの段階で発信する事で、誰にメリットがあるのやら。

あの女はホントダメだ。

不妊治療が何だか知らんけど、そうやって授かった大切な命なら、商売のネタに使うんじゃなくて、もっと心から大切に思ってほしいもんだ。

まぢで。

テレビ見てて思ったのは、何なんだろう。

どいつもこいつも子どもの事をペットかなんかだと思ってるんだろうか。

何か、バッグでも持つかのように、子どもを持ち歩いて、自分の好みを押し付ける、その様を見ていて、何とも言われない苛立ちが募る日々です。

そして、子どもに英才教育を仕込もうとする奴らも。

自分がバカなのを棚に上げて、子どもには英才教育って・・・自分の身の程を知るべきだ。

トンビが鷹を生むとか、そんな事はそうそう起きないって。

昨日の「東京カワイイ」に出てたキチガイママさんは「子どもを孫社長みたいにしたいから、英語のテレビば番組を見せてます。」とか、ドヤ顔で自慢して、専門家にフルボッコにされてた。

一体、どの部分から孫社長のようにしたいのかよく分からないけども、多分このおばさんは在日なんだろう。

生活保護を受けて生きてるんだろう。

と、思いなおし、「ああ、日本社会の足を引っ張る最底辺のクズか。」と納得した程でございます。

今になって「天津影久」の言葉が頭をよぎる。

「親の出来なかった夢を、自分の子どもに叶えさせようと考えるなど愚の骨頂。」
取り合えず、子育てブログとかで、自分の顔は晒してないのに、子どもの顔は晒しまくってるアホママには要注意だ。

そいつらは、ただ、子どもをファンションアイテムの一つだと思い込んでいる。

だから、子ども自身に人権などあるはずもないと考えている。

将来、子どもには、自分の出来なかった英才教育と言う名の拷問を受けさせ、子どもが思い通りに育たなかったら、周りのせいにして、挙句の果てには「何でうちの子どもは成績がこんなに悪いんですか!」とか、学校に怒鳴り込んでくるようになるだろう。

そうならない事だけを切に祈る。

それは、ただただ子どもが不幸になるだけだから。

子どもに罪はない。

子どもに親は選べない。

子どもは、どんな虐待をされようとも、どんな仕打ちをされようとも、その親の元でいるしか生きる術がない。

キチガイ親がどうなろうと知った事ではないけれども、子ども達が、ニコニコと笑って「早く大人になりたい」と言いながら育ってくれる未来を作っていく必要があるのだと、真剣に迫られて考えている。

オレに出来る事は、何なんだろうか。

そんな事などを考えて見る夜。

悲しみの雨に肩を濡らし佇む傍らで。

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2012年6月9日 22:15 CAT :

I could not look back

ここ最近、少々欲求がたまっている。

何か知らんけど、バカみたいに「歌を歌いたい」
何か知らんけど、バカみたいに「爆音でギターをかき鳴らしたい」
何か知らんけど、バカみたいに「漫画を書きなぐりたい」
何か知らんけど、バカみたいに「口に出すのも恥ずかしいような内容の演劇がしたい」
何か知らんけど、バカみたいに「ヘイローとかやりたい」
何か知らんけど、バカみたいに「本を読みふけりたい」
何か知らんけど、バカみたいに「文章を書きたい」
欲求はたまる。

減ることなどなく際限なくたまる。

取り合えず、今オレが言いたい事は、もうソース書きたくねぇ~。

もうフォトショとおさらばしてぇ~。

悲しいけど、これ、仕事なのよね。

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2012年6月7日 22:30 CAT :

人間は誰かを傷つけなければ生きられません。でも、その対象が自分か他人かの自由はあるようです。

昔、書いた「アンチスーサイダー戦場へ赴く」と言う物語がある。

中二病全開バリバリぶっちぎりの物語で、実は、かなり好きな物語の一つだったりする。

ふと考えて見た。

戦争に向かう人間。

その戦争では、毎日何百・・・場合によっては、何千人の人間が死んでいく。

その死んでいく人間ひとりひとりは、(おそらくは)望まれて望まれてこの世に生を受けた確実な命のひとつ。

戦争に向かう、一人の人間は、その事を知ってか知らいでか、課せられた使命のように、一つずつ命を摘み取って行く。

もし、人間が「生きられない事を前提として」マンボウのように何億もの子どもを産むのなら、こんな感情には囚われはしなかっただろうて。

でも、人間は「生きられる事を前提として」一つの命を大切に育てようとする。

摘み取る事は、実に簡単で、育てる事は、きっとその何兆倍も大変なのだろう。

ただ、一つだけ不思議な事は、それでも、人口は増え続けている。

命の数は決まっているので、人間が増えた分、他の命が減っていくのは仕方のない事なのです。

バランスをとる必要がある。

だから、戦争がなくならない。

それが人間の業だと言うのなら、実は、なんと悲しい生き物なのだろう。

教育も、環境も何も関係なく。

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2012年6月2日 23:19 CAT :

あなたと一緒なら天使の羽根きっと見つかる。

「ずきあかのちゃんね~」も「しまうらのろ~た~」の大好き。

今更ながら、夙川アトムを思い出して、ニヤニヤしております。

昨日、たまたまNHKで「バリバラ」を見た。

前から凄い見たかった番組だったりしたので、ただただ「ラッキー」とばかりにツラツラと見てた。

やっぱり時代は、「脳性マヒブラザーズ」なのだろうか。

ついに、オレの口癖「おまえは小児麻痺か!!」が世間的に許される時代が来てるのかと、何だか感慨深いものがあるようなないような。

そんな気持ちの私です。

番組の中でふと思った事。

めくら視覚障害のあるヤツが一人居た。

そいつは、目が見えないくせに、両行が大好きと言う、頭もチョッとぶっ飛んでるヤツだと思う。

(どうでもいいけど、目が見えなくても旅行とは楽しいものだったとは知らなかった。)
そいつは、どうも目が見えない分だけ耳が異常に発達しているらしく、音を聞き分ける能力も優れ、しかも、耳で聞いた歌詞なども一瞬で覚えてしまえるのだとか。

それをそいつの連れが「その能力が欲しい」と言ってた。

「障害とは、障害だと思ってしまえば、それまでだけど、個性だと思えれば可能性は広がります。」
という言葉は、「ブラックジャックによろしく」の一節だったか。

「音楽やスポーツの才能を欲しがる親はいても、手足のない子どもを欲しがる親はいない。」
みたいな言葉も、「ブラックジャックによろしく」の一節だったか。

オレは、なまじ目が見えてしまうものだから、耳が目の見えないヤツより劣ってしまったらしい。

例えば、オレは、何かを覚えるときに、耳で聞くだけでは覚えられず、目で見るだけでも覚えられず、悲しいかな、目で見ながら、手で書いて、それを声に出して読んで、自分の声を聞きながらじゃなければ、なかなか覚えられない。

まぁ、五感をフルに使っている訳ですな。

五感がしっかり発達しているばっかりに。

そう考えた時、もしかしたら、どちらの方が良かったのか・・・と、簡単に言えるものでもないかもしれない。

日本には、少し前まで「見世物小屋」なるものが存在していた。

そこでは、畸形に生れてしまった人間が、「親の因果が子に報い、生まれいずるは呪われた○○人間」のような前口上と共に見世物にされていた。

ある時は「蛇女」、ある時は「犬人間」と呼ばれながら。

「ぐるぐる使い」は本当はいなかったと信じたい。

障害を持って生まれた人間の生きていくためのすべの一つだった。

・・・らしい。

人権団体の皆様は、「人権」と言う名の差別意識を押し付ける事で、これらの障害を持った人間を「人前に立つには恥ずかしい人間である」と位置付けた。

その結果、彼らは仕事を奪われ、国からの保護を受けていると言う現実もある。

それはもしかしたら、身体以上に不自由なことかも知れない。

もちろん、本当に恥じている人もいる事だろうて。

でも、そうでもない人もいるはず。

「障害がある」と一緒くたにしてしまうこと自体が、自分とは違う下等で下賤な生き物を見る視線があるように思えて仕方がない。

生活が困難だと言うなら仕方がない。

ただ、それはやりたい事を奪う事とは同異義語ではないと思う。

いつかは、「目が見えない代わりに、耳が異常に聞こえる能力」と。

「脳性マヒだから純粋でいられる個性」と。

そして、「手もないくせに調子乗ってんじゃねぇ~よ」と。

言い合える日が来れば良いな。

なぜなら、昨日そのテレビに出てたの大半は、オレなんかよりよっぽど社交的で、よっぽど沢山の友人に囲まれてニコニコとしていたのだから。

明日から皆で声高に叫べばいい。

アホな事してる連れに「おまえは小児麻痺か!!」と。

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