月別アーカイブ: 2020年9月

2020年9月19日 3:56 CAT :

夢想の中で生きるセルロイドを舐めたげる~加勢大周もびっくり~

なんだかなぁ~と思う事があった。

本当に、なんだかなぁ~と言う感じ。

取り合えず、声がでかい奴が優遇される世の中と言う事らしい。

イヤね。そんな事、分かってるんだよ。そんな社会だ。でも、「お前もそうなのか。」と言うがっかり感が実に強い。

我慢すれば、我慢した分だけ踏みにじられるらしい。

なんだかなぁ~。もう何も考えないようにしよう。

さてさて。

忘れようとしても、ずっと悶々と考えてしまう難儀な性格でございます。

なので、それはそれとして心の奥に引っ掛けておいて・・・イラストを2点描いた。

漫画も色々描いてるんだよ。取り合えず。

過去に色んな所に出したりしてて、新都社さんの規約的に、これは載せれないな・・・と思ってた短編がいくつかある。その辺を「まんがおきば」と言うサイトさんの方へ、加筆修正して載せる事にした。

併せて、本当に久々に新作の短編のネームを切ってる。

アルバム「王道軽傷」に収録してる「虐殺の恋文」と言うお話。これは、かなり以前から、短編漫画にしたいと思ってて、やっとそのネームを切り始めた。「G」の方描きためしてて、週に1回の更新と言うノルマがないうちに、この短編も描き切ってしまいたいなとか思ってたりする。

もちろん「G」の方も描いております。

漫画いっぱい描くのは楽しいんだけど、本当に時間がねえんだよな。

どうしたもんか。

で、今回描いた2点のイラストがこちら

 

 

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ひとつは、「まんがおきば」さんの方で今後アップしていくだろう短編を、1作ごとに登録するんじゃなくて、短編集として1つの作品として登録しようと思って、その表紙用に…

この短編集のタイトルは「漆黒の青空」。

知ってる人は知ってるかもしれない。

オレが、過去に沼レコのサイトで、詩を載せる時に使ってたタイトルの使いまわしでございます。

その「漆黒の青空」をイメージして描いてみた。

アルバム「夢喰いバクヲ」収録の「レイ=プレイpart1」って曲の中の一説。

ただただ悲しみの中で静かに空を見上げ
絶望の青い空はどこまでも透き通るように青く
あたしはその深さの分だけ悲しみに途方にくれ
泣き叫びました

レイプされた少女が、空を見上げて思う描写なんだけど、この空の色と情景こそ、まさに「漆黒の青空」のイメージにピッタリだと思って、それをイメージして描いた。

自分で言うのもなんだけど、女の子の表情がなかなか良い感じに描けてると思う。

 

 

もう一つのイラストがこちら。

これは、八神の過去の話も終わって、いよいよ最終決戦に突入すると言う事で「G」のトップ絵を描き下ろした感じ。

「G」を読んだことある人ならわかるだろう。

そう。あそこだよ。あそこのシーンを描いたんだよ。

早くあのシーンを描きたい。

そして、その先の話を描きたい。

その話を描くために、1年以上かけて、コツコツと伏線張り巡らして、描いてきたんだ。

と言う事で、「G」も最後に向けてラストスパートしていくと思う。

ただ、最近またクッソ忙しいし、他に色々やりたいことも出てきてるし、短編1本描き下ろそうとかしてるし・・・

時間がいくらあっても、ホントたりませんな。

 

 

何しか最近、カラーのイラスト描くのが楽しくなってる。

もっと色々書きたいんだけど、とにかく、こいつは時間がかかるんだよ。

1枚書くと、その日はもう漫画1ページも描けなくなる位。

なので、描きたい衝動は自重しつつ、どんどん描いていきますです。

どうでも良いけど、「G」のトップ絵、久々に、デジタルを離れて、鉛筆で紙に書いた。

その絵を取り込んで、ペン入れと着色はデジタルでした感じ。

ちなみに「漆黒の青空」の方は全部デジタル。

下書きだけでも、アナログの工程が入ると絵に力が出るような気がする。

何でなんだろう。

 

 

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2020年9月17日 0:38 CAT :

絶対に選べないのに無理やり選んで人生で1番を決めるシリーズ「音楽」

生きていくと言う事は出会いの連続。

その出会いは時に、人生そのものを変えてしまうかもしれない大きな力があったりなかったりあったりする。

数々の素晴らしい出会いは、そのどれか一つを取ったとしても、全てに思い入れがある。

と言う前置きの上で、絶対に選べないのに無理やり選んで人生で1番を決めるシリーズ。

第1弾は「音楽」だ。

これが意外と書いてて面白ければ、この後も「漫画」とか「映画」とか「小説」とか「ゲーム」とか「絵画」とか色々続けていきたいなと思っております。

あくまで、オレが書いてて面白いかどうかと言う観点で。

で。

でだ。

音楽は、これまで本当に人生を色々と変えてくれた。

多分、一番人生が変わったターニングポイントとなったのは、間違いなく音楽だと思う。だからこそ、一番最初にした訳だけれども・・・

そんな訳で、これは選ぶこと出来ねえよ。まぢで。

音楽の良さを教えてくれたサザンか?

初めて組んだバンドで初めてライブをやった時にコピーしたGLAYか?

手首を切りながら狂ったように聞いてたディルやジャンヌダルク辺りのビジュアル系か?

涙とともに聞き続けてた野狐禅か?

生きる希望になった筋肉少女帯や犬神サアカス團か?

今現在、何度となく立ち上がる力になってくれてる苺楽団や、スキッツォイドマン、モケーレムベンベ、水中。それは苦しいか?

などなど・・・考えだしたら、こればっかりは本当に決められないや。

バンド単位でも決められない。

更にその中から、1曲を選ぶ。

そんな事できるはずがない。

はずがないんだけれども、ここはひとつ無理やり1つを選ぶ。

選んだんだよ。

それは、やっぱり筋肉少女帯だ。中でも一番好きなアルバム「キラキラと輝くもの」の中で、更に一番好きな曲。

「ベティー・ブルーって呼んでよね」。

オレが、人生におけるもっとも好きな1曲は、これだ。まぢで。もうこれしかない。

イヤね、人生の節目節目とか、人生観が変わった曲とか色々候補に挙がったんだけど、もう、こればっかりはどう考えても、やっぱりこの曲しかなかった。

この曲自体、あんまりメジャーじゃないかも知れない。そもそもバンドブームが終焉を告げて、筋肉少女帯自体も、歴代最悪とも言える酷い状態で、作られた奇蹟の名盤「キラキラと輝くもの」。

このアルバムには「機械」「小さな恋のメロディー」「サーチライト」のような、今でも筋肉少女帯を代表するような名曲がそれこそキラキラと輝いている。

元々捨て曲などない筋肉少女帯なんだけど、このアルバムは本当に素晴らしい。

熱量でいえば、そりゃあ「仏陀L」や「シスベリ」から「月光蟲」くらいまでにははるかに及ばない。

当たり前だけど。

単純に、「筋肉少女帯と言えば?」みたいな話になれば、そりゃあ「釈迦」でしょ。「いくじなし」でしょ。「サンフランシスコ」でしょ。「高木ブー」でしょ。

でも違うんだよ。絶望と苦しみ中にいながらも、思春期のような熱量を出すことも出来ず、どうしようもなくなった大人が苦しんで苦しんでやっとひり出した、哀愁と優しさがこのアルバムには本当に詰まっているんだ。

まぁいいや。この曲の思い出を描いていこう。

オレがこのアルバムに出会った時、筋肉少女帯は凍結状態。うっちーとおいちゃんが体裁だけを守ってると言う、本当にひどい状態。

当時、たまたまテレビで「特撮」の曲(多分、アベルカイン)を聴いて「おお!カッコいい!」って思って、「大槻ケンヂ」と言う人を調べてた。前は筋肉少女帯と言うバンドを組んでた事を知って、そのアルバム売ってないかなと中古のCDショップに行った時、100円でたたき売りされたのがこの「キラキラと輝くもの」だった。

これ幸いと買って帰って、家で聴いた瞬間の衝撃は今でも忘れない。

特に「サーチライト」を聴いた時の衝撃よ。

正直レベルとか、そういう話じゃなかった。次元が違ってた。そして、まさに自分そのものだった。

誰からも見向きもされず、彼女はもちろん、友達もおらず、鬱屈としたまま一人部屋で、誰にも読ませないマンガを描いてニヤニヤしてるだけだったオレの事を歌ってるように感じた。

なんで、この大槻ケンヂって人は、こんなにオレの事を知ってるんだろう?

そんな不思議な衝撃。

衝撃が体を突き抜けた後、突然やってくる「そして人生は続く」「ザジ」と言う優しい音楽。

その極めつけが「ベティー・ブルーって呼んでよね」だった。

この3分くらいの短い曲を聴いている途中、オレは涙が止まらなかった。

世の中には絶望しかないと思ってた。

誰からも認めてもらえないまま、一人孤独にそれでも死ぬことが出来ないまま、生き続けることがほぼ確定していると思ってた。

「夢をあきらめるな」的な曲を聴いては、追い詰められていた。

「素敵な恋愛」の曲を聴いては、自分の存在価値に疑問がわいていた。

そんな中、初めてこのアルバムが、この曲が初めて「生きてていいんだよ」と、それも強く背中を押す訳じゃなくて、横に寄り添うようにそっと言ってくれたような気がしたんだ。

こんな糞みたいなオレだけど、その後一人の女性を付き合って、結婚して、子どもが出来て、家庭が出来た。

ここ数年になって、漫画とかこれまで誰にも見せた事のなかったものを、人前に出すようになった。

でも、ずっと誰にも見せずに悶々と作ってきたものなんて、独りよがりでしかなくて、当たり前だけど、ほとんどの人からは見向きもされなかった。

その事を嫁に話した時、「別に誰からも見向きもされなくてもいいじゃない。私は大好きだから。これからも描き続けてね。絶対やめちゃあだめだよ。」と言われた。

「ベティー・ブルーって呼んでよね」だ。

あの時、「ベティー・ブルーって呼んでよね」と言う曲を聴いて、「生きてていいんだよ。」と言ってもらった。

それから10年以上経って、オレも「ベティー・ブルーって呼んでよね」になった。

相変わらず、誰からも見向きもされないけど、オレは「ベティー・ブルーって呼んでよね」になれた。

人生の意味なんてものは、未だにさっぱり分からない。

多分、オーケンもこの曲に対して、こんな事思ってないような気がする。

でも少なくともオレは、この曲のお陰で人生に彩りと意味が生まれた。それは、間違いない事実だと思う。

人生のいろんな場面において、その時々に寄り添ってくれた音楽がある。

その音楽があったから乗り越えられた。そんな音楽がたくさんある。

ただ、「ベティー・ブルーって呼んでよね」はそういう話とは、少し次元の違う所にあるんだよ。・・・多分。

こういう大切な曲があると言う事自体が、凄くありがたい事だと思う訳ですよ。

この曲に対する思い入れとか言い出したら、もう尋常じゃなくある訳で、もうすでに長くなってしまった。

そろそろこのお話しは終わりにしよう。

アルバムは、この曲で感情を最高の状態に持っていったあと、「お散歩モコちゃん」で少し落ち着かせて「冬の風鈴」でキレイに終わる。

構成も含めて、本当に完璧なアルバムだよ。

未聴とか勿体ないを通り越して、「あの衝撃をこれから体験できるのか」と羨望するわ。

再発版もあるけど、あっちはボーナストラックが入ってしまってるので、オリジナル版を聴いた人が買うものだと思ってる。

なので、是非、持ってない人は中古CDででもオリジナル版の方を聴いてほしいな。

多分500円くらいで買えるだろう。

ちなみに、「ベティーブルー」はまだ見ていない。

と言う、なんだかなぁ~な感じ。

映画見たら、この曲に対する見方も変わるんだろうか。

でも、この曲だけは、見方を変えたくない。

だから、「ベティーブルー」は多分一生見ない。

 

 

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2020年9月15日 0:08 CAT :

一歩踏み出した瞬間に石ころに躓き続ける人生part2

いよいよと言うか、何と言うか地味に外堀が埋まりつつある今日この頃。

状況的なものを色々鑑みた結果、事務所が法人化の段階に入りつつあるらしい。

と言うか、多分もう法人化するだろうと思う。

いつになるかはまだ未定。

でも、何となく、記念日にしたいなと思っているので、来年の4月22日かな。

今年で、地味に結婚して10年目。

11年目を歩みだすと同時に、自分の会社を設立すると言うのは、なかなか素敵な事じゃあないかと思う。

まぁ、会社と言っても、独立して、自分の事務所を立ち上げてから5年以上やってきたことをそのまま継続していくだけなんだけどね。

節税とか、経費の管理とかその辺の事がめんどうくさくなってきたので、法人化することで、お金の流れを分かりやすくしてしまおうと言う話ですよ。

たくさん人を雇って、本格的に事業を拡大しようとかそういう事はほとんど考えてない。

何と言うか、どうしても自分で納得のいくものを作っていきたい気持ちが強い。

仕事を渡したくないとか、そういうニュアンスともちょっと違うんだけども・・・オレに対してお仕事もらえたのに、それを他の人に渡して、オレが納得できないクオリティになって、それを納品するのは、申し訳ないんだよ。かと言って、じゃあ、人にノウハウとかを手取り足取り伝えていくと言うのもどうなんだろうと・・・

それをやるのは、嫁だけで良いかな。と思ってる。

将来的には分からないけど、今のところの構想としては、スーパー家族経営。で、時々手伝いに来てくれる人が数人いると言う形態。

ぶっちゃけ、今の形態そのままでございます。

事務所を法人化してしまうって言う行為に対して、後戻りできない感が強くて、確定的な理由もなくダラダラと先延ばししてた。

でも、いつまでもその場で足踏みってのはなかなかできないもんだ。

世の中には前進か衰退しかないらしい。

現状維持と言う選択が実は一番難しい。

前進しようした結果衰退してしまう事はある。

前進しようした結果前進できることも間々ある。

現状維持をしようとした場合、ほぼ確実にそれは緩やかな衰退でしかない。

人間の思考には「安全領域」と言うものがあるとか何とかと言うお話を聞いた事がある。

安全領域とは、「今できることを今の環境のままで続ける」思考の事で、ルーティーン化した物事を繰り返すことが人間にとって一番楽な生き方なんだって。

この安全領域を抜け出す。つまりは、やった事ない事をやったり、今までと違う環境に自分の身を置くと言う行為は、物凄く力がいる生き方。

でも、この安全領域を抜け出し続けなければ、成功はないらしい。

安全領域の中に居続ける事は、少しずつ安全領域を削られていく事とほぼ同意で、いつか強制的に安全領域を追い出されてしまう。

だから、安全領域を抜け出して、新しい場所に次の安全領域を作る。それを延々繰り返す。

獲得した安全領域が消滅する安全領域より多ければ、それがきっと安定した生活なんだろう。

確かに、独立してからこっちは、ずっと何かに挑戦し続けてきた気がする。

ここ最近、少し安定してきて、「今の生活メッチャいいなぁ~」と思ってた。

でも、そろそろこの安全領域からでないといけない時期が来たと言う事か。

今日打ち合わせ来た社長さんは、オレの親父より10歳くらい年上。

77歳なのに、まだまだ新しい面白い事にどんどん挑戦していってる。

正直、バイタリティはオレより何倍もあると思う。

よぉ~し。負けないようにオレも色んな事にチャレンジするぞぉ~と、強く思えないところが情けない所だよな。

果たしてオレにとっての成功とはなんなんだろうかね。

 

 

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2020年9月9日 23:40 CAT :

メンヘラきらい死ね

チョッとばかり…とは言えないけれども、以前の自分を鑑みる。

何と言うか、人の不幸とか苦労とか、絶望とか、悲しみを見るのが好きだった。

苦しんでる人を見てはニヤニヤしてた。

そのくせ、自分に対しては、分不相応な賞賛を求めて、それがない(当たり前だけど)ことに対して不満をまき散らしてた。

結構長い期間、そんな感じのままだったんだよね。

なのに最近。

気が付けば、そんな感じでもなくなってしまってた。

人の不幸とか、悲しい話とかに対しての興味が凄く薄くなってきた。前みたいに、覗き込むようにそう言う事にあえて首を突っ込むこともしなくなった。

あと、人が頑張ってることに対して素直に「すげえな」と思えるようになってきたし、頑張ってる人に対して応援したくなってきた。

自分に対しては、賞賛がないとか、そう言う事でひがむ事も無くなったし、現状に対して感謝できるようになった。

180度変貌した感じ。

でも、24時間テレビは大嫌い。

こんな事になってしまった原因を、ただ年取って丸くなったからな。と言ってしまうのは簡単だけれども、意外とそうでもないような気がしている。

自分の今の生活とか、状況に対して不満がなくなってきたからじゃあないだろうかと思ってる。

自分が不幸だと思ってるうちは、多分、人の不幸を見たがるし、自分の現状に不満を漏らしまくるし、ついでに言うと人に対して攻撃的になるんじゃないかな。と。

問題なのは、本当に不幸なのかどうか。と言う点だよな。

そもそも幸福とか不幸って言うのは、あくまでもその人の感覚でしかない。

お金があれば幸福なのか。

家族がいれば幸福なのか。

セックスできれば幸福なのか。

仕事が出来れば幸福なのか。

美味いものが食えれば幸福なのか。

生きていれば幸福なのか。

死んだ人は幸福なのか。

障害があれば幸福なのか。

などなど…何をもって幸福と言うのか。

年収600~900万くらいの世帯収入の人が一番幸福度が高いと言う調査があるらしい。

それは、その位の年収が一番生活しやすいとかそういう話じゃなくて、幸福度の高い考え方をしている人はその位の年収になりやすいと言う事だと思ってる。

いやね。オレ自身の話だけど、お金があるに越したことはないけれども、その為に、家族とか遊びとか趣味をすべて放棄してまで、一心不乱に仕事をするのは違うと思ってる。

自分の時間があって、子どもたちを遊べる時間もあって、家族で過ごす時間もあった上で、お金が稼げると一番良いと思うんだよ。

で、今、まさにそんな状態になってる。

多分オレは幸福度が高いんだ。

だから、昔と比べて、僻んだり、不満ぶちまけたりすることが減ったんだと思う。

ただ、これ逆の可能性もある。

特に、独立してからこっち、自分の事務所にお仕事をくれる人に対しては本当に感謝しかないんだよ。だから、人に対して不満をぶちまける事が少なくなった。

あと、サラリーマンしてた頃と比べて圧倒的にストレスのない生活をしてる。

ストレスなく、自由な時間が多くて、んで、感謝することが増えた結果、僻んだり、不満をぶちまけなくなって、気が付けば、幸福度が上がってきた。

どっちが正解かは分からないけども。

一つ言えることは、やっぱり人の悪口言ってたり、人の不幸を楽しんだり、不満ぶちまけたりしてる間は、状況がどうなっても幸福度は上がらない。と言う事だと思う。

自己啓発本とかに良く載ってそうな話で、サラリーマン時代のオレは、「反吐が出るわ。そんなの金持ちのたわごとだ!」と思ってたけど、今になって考えてみると意外とその通りかもしれない。

今もオレは全く金持ちではないけれどもな。

やっぱりね。人のことを悪くいうヤツはダメだよ。

少しでも感謝できることを探して、その事を口にしていくことから幸福度を上げる循環は始まる。

・・・と、ここ最近のオレは信じております。

 

 

 

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2020年9月8日 0:18 CAT :

「中指のペンだこ」酢漬けで晩酌一献の夜は嵐

オレが書いたシナリオがマジで映像化されて公開された。

現在進行形のお仕事なので、今後もコツコツと書いていくだろうし、すでに書いたやつも今映像化されているんだろう。知らんけど。

すごく不思議な気分で、それを見ていたんだけど、一つ思ったことがある。

あ・・・これ、人気でないわ。ごめんなさい。と。

メッチャ面白いと思う。

やっぱり、自分で書いたものは面白い。

世界一面白い。

ただし、オレの感覚でなら。なんだよね。残念ながら。

はまる人は、はまってくれると思うんだけど、絶対万人受けはしない。

あんなに、個性殺して日和見な感じで書いたのに、形になったものを見たら全然いつものオレの書いた奴だった。

ここで紹介とかしないけど、多分、オレの書いた何某かを見た事ある人が見たら、一発でばれるんだろうな。

さてさて。

今週も何とか「Gの世界」1話分、13ページ描き切る事に成功した。

ホントギリギリだった。

色々忙しいけど、それでも、あと1話は描かねばならない。

区切り良い所までは、更新途切れさせたくない。誰のためにかは知らん。オレのためだ。多分。

そんな良く分からない矜持で、コツコツ絵を描いております。

前述のシナリオはお金もくれるお仕事だけど、この漫画を描くと言う行為は当たり前だけど、1円も貰えない。

100%趣味でやっている。

でも、何でか、お仕事よりも強いこだわりを持ってやってる。

何なんだろうね。

この自分の頭の中にある妄想を形にすると言う行為と、それを自分で褒めちぎると言う行為こそが、鬱屈とした思春期において、唯一アイデンティティを保つ方法だったんだと思う。

だから、今でもその行為にだけは妥協しないんだと思う。

人のために描く絵じゃない。自分のために描くものだからこそ、こだわっております。

なので、描き終わった後、少し時間をおいて読み直してみると、どうしても気に入らない絵が出てくる。

流れ的にこういう演技じゃねえんだよ。

演劇をやってた時は、脚本、演出、監督をやってた。

その時の感じに近い。

キャラクターに対して、この流れでその演技は違うよ。ここは、こうだろう?と。ね。

今回の「Gの世界」55話では、2か所あった。

たまには、その没の方も紹介したいと思った次第であります。そういう羞恥型オナニーであります。

まず、10ページの八神を慶斗が追いかけるシーン。

最初は、横のコマとの対比で叫んでる口のアップを描いてた。

でも、あとから読み直して、これじゃあイマイチ慶斗くんの感情が分かりにくいなと思い、表情が付いた顔に書き直した。

うん。

すごく良くなったと思うよ。ワトソン君。

もう一つ。

で、このあと、ラームの誘いを受けて、八神が兄弟と決別するときのシーン。

チョッとネタバレになっちゃうけど、このシーンで、八神は、兄弟を切り離したくないけど、兄弟のために自分の魂を売ってラームに協力を仰ぐ。そんな心情なんだ。

それを言葉にしちゃうとなんか軽くなるので、顔だけで表現したかった。

最初は、凄く迷いがあって、本当にこれでいいのか悩みつつ、弱みを見せないために必死。そんなイメージで描いた。

これはこれで、個人的には渾身の表情だと思ったんだけども、読み直してみたところ、ふと思った。

決別のシーンで、八神が悩むのか?と。

最初は、そんな八神でも悩むほど強烈な出来事。的なニュアンスも入れたかったから、この表情しかないと思った。

思ったんだけども、やっぱり違う。

コイツは、どんな時でも弱いとこは見せちゃダメなんだ。

だから、圧倒的に強い決意をするけれども、その奥に少しだけ迷いがある。そんな表情に出来ないかと描き直した。

さっきのも良かったけど、正解はこっちだったと思う。

強い決意の中に迷いを唯一見せるシーンだ。

唯一迷い、悩むシーンじゃなかった。

と、まぁ、こんな感じで、毎回何度も読み直して、気に入らないカットは描き直して、気持ちいいオナニーに浸っているわけですよ。

でも、先日の話通りほめてもらえたらやっぱり嬉しいことも分かったし、たくさんの人に呼んでもらいたいとも思っているみたい。

難儀な性格だと言う事ですな。

しかし、表情描くのって難しい…

全然描けない…

 

 

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2020年9月6日 0:17 CAT :

がむしゃらオナニー はじけ飛べティッシュボンバー

学生時代、良くつるんでいた連れに「ぶー」と言うやつがいた。

いつ出荷されてもおかしくない子ブタだったから「ぶー」と呼んでいた。

そいつとは、一緒にマンガ描いたりと言う創作活動的な事もよくやったし、何よりオレが団長さんしてた劇団のお荷物野郎で、一緒に演劇も作ったりしてた。

そんなある日の事。

アイツはオレに対して、自分が大好きなSlipknotの結成の話とか、各メンバーの生い立ちとかを散々語った。

どこまで本当だったのか分からないけど、メンバーがスラム出身で子どもの頃から地獄見てきたとか、金持ちになる事に異常な執着があったとか、レコーディング中に瓶で頭カチ割ってテンション上げてたとか…色々。

そしてそのあと、「だから、あいつらの音楽はシャレにならんのよ。あんたみたいなお坊ちゃん育ちには絶対に超えられない壁がある」的な事を言った。

確かにオレは、坊ちゃん育ちだと思う。

実家が裕福だったかと言えば、それは良く分からないけど、今になって思えば、「あ・・・オレお坊ちゃんだったわ」と思うエピソードがてんこ盛りだったりする。

まず、子どもの頃まぢで、坊ちゃん刈りされてた。


参考画像(↑)

お金で苦労したことはもちろんない。

家が欲しいって言えば、今でも多分、ポンとお金くれるか、建ててくれるだろうくらいには、お坊ちゃんだと思う。

でも。

でもだ。

それはそれとして、モノ作りに生い立ちは関係ねぇだろうがよ!!と、思ってる。

何だ?あれか?金に苦労して、辛い思いしてないと、良いものは作れないのか?

それを言うんだったら、そんなお坊ちゃん育ちだった為なのか、元々の病気なのか知らないけれども、うまく社会に溶け込めないまま、友達も居なくて、いつも一人だったとか、そういうどうしようもない閉塞感はどうなんだよ。

小学校の頃なんて、本当の貧乏な人たちにアホみたいにたかられて、おもちゃとかカードとかごっそり持ってかれてたわ。虐められてたわ。

その結果できた鬱屈とした性格はどうなんだよ。

などなど、色々思ってたりする。

「あしたのジョー」は嫌いで、「がんばれ元気」が好き。

「あしたのジョー」なんて、それこそ、「ジョー」のような生い立ちだからこそ、ハングリー精神があってこそ強くなれると言う、ぶーの言ってた話を体現したような話だ。

「がんばれ元気」は、いつでも襟付きの服着て、大きな家に住んでいるような坊ちゃんなのに、隠しきれない狂気と暴力性があって、その結果強くなっていくと言う、「あしたのジョー」のアンチテーゼなお話し。

もちろんリアルタイムの世代な訳じゃないので、どっちも結構大きくなってから、しかもほぼ同時期に読んだ。

そして、オレは「がんばれ元気」派だった。

犯罪を犯した奴は、生い立ちをほじくられる。家庭環境をいじられる。

オレは声高に言いたい。

そう言う特殊な環境に居なくても、面白いものが作れると。

多分、普通に育った異常な奴がいっぱいいると。

オレは自分の中に悶々と出てくる妄想や願望を切り取って、形にし続けてきた。

それに対して、「甘ちゃんが描いた絵空事だな」とか言われるのは、凄く嫌なんだよ。

確かに甘ちゃんだし、苦労なんてほとんどした事ないかも知れない。

でも、創作に生い立ちは関係ない。

そう信じて、今日も悶々と出てくる妄想や願望を切り取って形にし続けていくのです。

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2020年9月2日 4:46 CAT :

長々と語る事ばかりしか能のない老人の脳みそでもロボトミーはしない

独立してから5年が過ぎた…。

孤独のグルメの井之頭五郎に対して「あんな個人事務所みたいなところが、ポンポン大きな企業から仕事来る訳がない。そう言う所で覚めるんだ」と言う、随分的外れな感想を見かけたことがある。

オレも個人事務所だけれども、独立してからずっと右肩上がりに業績上がってる。正直、サラリーマンの時とは比べ物にならない位自由だし、お金も稼げているような気がする。

今なんて、上場企業さんとか、自治体さんからも色々なお仕事もらえたりしてる。こんな片田舎で、個人でやってるクソしょぼい事務所だと言うのに。

本当にありがたいことで、今のこの状況に対して、自分でも奇蹟だと思ってる。

そんな感じだから、そりゃあフィクションだと思う人も居るだろう。ただまぁ、そんな奴はせいぜい、現実世界の中でも覚めた目で、つまらん人生を歩んでいくがいいさ。

さてさて。

そんな話に少し繋がるかもしれないけれども、是枝監督の「そして父になる」と言う映画を見た。

いや、今しがた見終わった。

今の時間は午前4時。

もう寝ろよって話なんだけど、久々に心をグイグイ揺さぶられてしまったので、その事を書かずにはいられなかった次第でございます。

イヤね、天下の是枝監督だよ。ライムスター宇多丸さんが毎回絶賛する是枝監督だよ。

外れな訳がない。

これまで見た是枝映画は全て最高だった。

あと今回は比較的出演している俳優さんも有名どころが多く安定感抜群。

「万引き家族」の取り調べシーンの安藤さんや「誰も知らない」の柳楽君の笑顔のような、瞬間最大風速がとてつもない度肝を抜くような演技はあんまりなかった。けど、その分全編を通して安定したうまい演技。

是枝監督のカメラワークも演出も素晴らしい。

本当に引き込まれる。

心に刻み込まれるような印象的なシーンもたくさんあった。

何か、福山家族と、リリーフランキー家族の対比とか、見せ方もホント最高だった。(最初貧相で嫌な感じに見えるリリーフランキー家族が最後、物凄く良い家族に見える演出とかはホント天才的!!)

言い出したら、そういう話はたくさんできる。

でも今回心を揺さぶられたのは、そういう話じゃないんだよ。

絶賛、父親中のオレにとって、一番心を揺さぶられるのは「父親と子ども」の話なんだよ。

生まれてから一番泣いた映画は、多分「ライフイズビューティフル」だと思う。

その話についてはこっちで色々書いたけれども。

「ライフイズビューティフル」は、ド直球の親子の美しさを描いて、そして結末もド直球。

だからこそ、素直に号泣するんだよ。

でも、この「そして父になる」はそんなド直球な物語じゃあない。そんな一筋縄ではいくはずもない。

この映画自体、是枝監督の倫理観とか、思想の押し付けとかがほとんどないと思う。

少なくとも表面上、面と向かって「ほら、こんな子ども可哀そうだろ?」とか「ほら、こんな生活ってしあわせだろ?」みたいな描写はない。

何が幸せで、何が不幸なのかと言う事も、本当の意味で客観的に突き放して描いている。

もののけ姫以降のキャラクターに没入させることを通して思想を押し付けようとする宮崎映画ではなくて、あくまでも客観的に徹底したリアリズムに見せる事で見る側の持つ思想とか倫理観をほじくり返そうとする高畑映画に近いものがあると思う。

それを通して考えさせられるのは、自分の今現在置かれている父親像だった。

オレの今の現状。

普段の生活はリリーフランキー家族に近いものがある。それこそ、毎日一日中子どもと一緒にいて、色んな事を体験しつつ一緒に成長してる感じがする。

でも、仕事が忙しくなると福山家族のように子どもと遊ぶ時間も無くなってしまい、ご飯の時くらいしか顔を合わさなくなる。子どもが寂しくて仕事部屋に入ってきても、ろくに相手にしない。

まさに、両方の親子関係の狭間にいるんだよ。

逆に言えば、オレの心持ち次第で、どちらの家族にもなる事が出来る。

だからこそ、尋常じゃなく揺さぶられてしまったんだと思う。

オレの人生観は、間違いなく娘が生まれた瞬間、ガラッと変わってしまった。

今でもまだ、娘が生まれた瞬間の事ははっきりと覚えている。

オレは、何があってもこの小さな命を守るんだ。って、直感的に決意した。

おそらくこの世の中のほとんどの親が、自分に子どもに対してそういう感情を持っている。(と言うか、そう願いたい)

この映画が提起する一番の問題は、その感情の持っていき方を改めて客観的に見てみませんか。と言う部分なんだと思う。

正直、娘も息子もどう考えてもオレの子どもなんだよ。

オレは他人の子どもに対してあんまりカワイイと思う感情を持ち合わせていないんだよ。

でも、自分の子どもに関しては、これはもう、本当にどうしようもないくらい可愛くて仕方がない。

そして、自分の子どもの頃にそっくり。まぢで笑ってしまう位。

もし映画同様に、「実はあなたの子どもではありませんでした」と言われても、福山雅治のように「やっぱりそうか」とは言わないだろうな。

「絶対嘘だろ!!!!」ってなると思う。

問題なのは、この映画が提起している話は、そうなった時あなたはどうしますか?と言う部分ではない事なんだよね。

それはあくまでも、問題を提起するための手段でしかない。

だからこそ、結末があんな感じなんだよ。

それはそれで良い。そんな話がしたいんじゃない。

オレは、自分の子ども達に対してどれだけ、向き合えているのか。と言う話なんだよ。

自分の気持ちの押し付けとかではなく、子どもの感情に対してだ。

作中で最も心に突き刺さったのは、作中で福山雅治が「僕にしか出来ない仕事なので、子どもより仕事を優先してます」的な事を言った後、作中ほとんど声を荒げないリリーフランキーが怒ったように言う「父親もあなたにしかできない仕事でしょう!!」と言う言葉。

今でも、絶対に忘れない体験がある。

娘が生まれて半年ほどしたとき、オレは一度心が折れかけたことがあった。

正直その時、オレは娘の事が謎の生き物のように思えてた。

当時サラリーマンだったけど、仕事が忙しくない時には、オレが娘をお風呂とかも入れてあげたりしてた。

その日は、仕事から早く帰ったから、オレが一人でお風呂に入れてあげたんだけど、娘が本当に大泣きした。

いつも泣き止むような事も全部試したけど、何をしても泣き続ける。

もちろんまだ言葉も喋れるわけない。首が座ったばかり位で一人で座ることも出来ない。

この当時、オレは、泣き始めたら嫁に渡して、おっぱい飲ませれば泣き止むとかそんな事を考えていたので、嫁を風呂場に呼んで娘を渡してしまおうと考えてた。

でもその日は、嫁が食後の洗い物をしてて、水道の音でオレの声が聞こえなかったのか、来てくれなかった。

本当に何をやってもズッと大泣きするこの得体のしれない生き物に対して、オレ自身もどうしようもなくて泣きそうになってた。

しばらくして嫁が娘の泣き声に気が付いて風呂場に来た時、多分、オレは虚ろな目で呆然として娘を抱っこしてたと思う。

オレは確か「もうオレ無理かも…」みたいなことを言った。

娘は、人一番怖がりでよく泣く。夜泣きも凄くて、寝かしつけても抱っこしてないとすぐ泣きだす。他人からも色々言われてたり、本当に色んな事があって、このお風呂の時にそれが溢れたんだと思う。このころ夫婦そろってビックリするほど寝不足だったし。

それに対して嫁は「この子の父親は一人しかいないんだから、しっかりしろ!!」と、珍しく強い口調でオレに言った。

あの時の言葉は、本当に強烈に心に突き刺さったんだよ。

あんな「何をしてもこの子はオレが守る」とか思ってたのに、いつの間にか、良く分からない生物と決めつけて、嫁に任せようとしてた事に気が付いた。

それ以降、オレは取り合えずどんなに困っても、自分の力で何とか出来るようにとにかく必死で娘と向き合った。

その結果かどうか分からないけど、子育てに関しては一通り全部できるし、一人で子どもの面倒見るとかも全然平気になった。

娘が泣いてる理由も、言葉分からなくても何となくわかるようになって、何をしても泣き止まないと言う事はなくなった。

今では、子ども達の心のブレに関してはある程度分かるようになった。いつも通りにしてても、「なんか悲しそうだな」とか「本当に楽しそうだな」とかが感覚的に分かる。で、話聞いてみると大体あってる。

そんなの当り前だと言われるかもしれないけど、情けない事にそれが出来る様になった事が凄い成長だと言う位、当時のオレはうんこ野郎だったんだよ。

リリーフランキーの言葉に、オレはこの時の自分の体験が凄く重なった気がした。

あの日からオレが決めてることは、子どもたちの気持ちに対して、絶対に(嫁であっても)人に任せないでちゃんと向き合うと言う事。

その事を改めて思い出さされた。

今のオレは、子どもたちとちゃんと向き合えてるんだろうか。

子育てって、結局答えが無いんだよね。あるのは、結果論だけ。

だから、自分が良いと思ったことをただ妄信的にやっていくしかない。

今、小学生になった娘は、寝室で抱っこすると「やめろ~~!!」って怒って暴れるけど、それでも絶対寝る時には「もう寝るよ。一緒にねべや(寝室の事)行こう。」と誘いに来てくれる。

それはあの夜、どうしても泣き止まなかった娘を嫁に投げ渡して「おっぱいあげといて」としなかった結果だと、今は信じてる。

ここ数日、本当に仕事が忙しくて、ご飯と寝る時くらいしか一緒に居れなかったけど、これはダメだな。とか思ってしまった。

・・・ダメだ。

物凄く長くなってしまった。

子育てに関しては、創作活動以上に色々と考えているんで、ついつい長くなってしまうな。

さて、では、かわいい子どもたちが寝ているベッドに行って抱っこしてくるか。

寝ている時なら、抵抗も出来まして。

本当に素晴らしい映画でした。

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2020年9月1日 16:05 CAT :

いつか死ぬとしても今はまだ死ぬ時ではないかもしれないかもしれない

新都社さんに漫画を投稿し始めて、なんだかんだでもう6年になるらしい。

その間に、「us」を一応完結させることが出来た。

「ランナ」については、1話にかかる時間が尋常じゃないと言う事や、ストーリー(と言うか見せ方)の練り直しをしてたりとかして、不定期更新になってる。けど、一応第3部の真ん中位までアップしてる。

「G」については、ほぼネームそのままに、絵だけ描き直すと言う省エネなやり方でチョイチョイ休憩入れながらも週1話のペースで、もう最終決戦直前位まで来ている。

その後には、「FE」のリベンジ版。「始まりは終末」を描く予定。

まだまだ描きたいことがたくさんあって、どうしようもない感じ。

岡田斗司夫大先生が、生きている間に語りたいことを語りつくせないから、ゼミの回数を増やすとか何とか言ってた動画を先日見かけたけど、オレもそうだ。

同じ話にしてしまうのは恐縮するけれども・・・

今のペースで描き続けたとしても、果たして死ぬまでに「やみ世界」の最後の話まで辿り着くことができるかどうか・・・

一番多感な学生時代、オレは自分が死ぬまでに形にするべき物語をまとめた。以下の通り。

〇永遠の向こうにある果て
〇やみ世界
〇連歌「忘却」
〇陀悪
〇ニュースチョクホー
〇US
〇G

(この段階で、ランナは完結済み)

この中で、「連歌「忘却」」と「陀悪」については、音楽作品になると思う。

ニュースチョクホーは、日記的な側面もあるので、最終話は多分オレのお葬式になると思う。

として、あとは「やみ世界」だけ。と言う所までこぎつけているんだよ。

ただ、今「やみ世界」を描かないで、過去の作品の焼き回しばっかりしているのにも理由はある。

「やみ世界」自体が、オレが描こう思ってた物語全てを統括する物語であり、ここまでの全ての整合性を含めた見直しの上で書かないといけないような気がしてたりする。

例えば、一番初めに書いた「FE」なんて、描きたい事と言うか頭の中にあった構想の1割も描き切らずに、途中で投げ出して、無理やり最後とつなげてたりする。

その間をちゃんと補填してあげる必要があった。

今、書いてる「G」でも、本来もっと描くべきだった「G」と他の話とのつながりの部分などについては、補填しつつ描き進めてる。

実際、ネームの時には、1話しかなかった八神の山での生活の話を、色々補填してみると、結果的に4話分のボリュームになってしまった。

でも、ここをしっかり描いておかないと、「やみ世界」の第8部「やつのかみの章」とのつながりが希薄になってしまう。

「ランナ」でも同じことで、さらっと流してしまった「ディルトンの奇蹟」の話をもっとしっかり描いておかないと、そもそものヴェルナリティーが誕生する経緯とか「FE」における、エルカサム教の流れがちゃんとつながらない。

とか、そんな事を色々考えてるんだよ。

ちなみに、エルカサム教については、ネーミングの元ネタがどうしても気に入らなかったので、今回描き直すにあたって「レイ=ティンバー」に変える事になった。

この「レイ=ティンバー」の由来などについては、今回描き直すにあたって新しく追加したプロット部分なので、まだ、ちゃんとした形になってない。

まだまだ、描きたい話は山盛りなんだよ。

もう一つ。最近「陀悪」については、こっそりと100%自分で作ってしまいたい衝動に駆られ始めている。

DTMで、自分で全て出来ないものだろうか。と。

これまで見たいなギターとボーカルだけじゃなくて、ベースもドラムも自分でやって、ミックスもマスタリングも自分でやる感じ。

やるとしたら、いきなりは出来ないだろうから、いくつか作ってみて「いける!」ってなったら、実行しようと思うんだけども、そもそも、機材集めもしないといけないよな。

やりたいことがどんどん増えてきて、時間がいくらあっても足りない。

今、この瞬間5億円くらい手に入ったら、全てを投げだして、ずっと部屋にこもって何か作り続けるのにな。

と思いつつ、お仕事頂いている以上はありがたく、一生懸命頑張るのでございます。

そんな、創作のお話し。

って、当初描こうと思ってた内容と100億光年くらい離れてしまったけど、新都社さんにお邪魔してから6年。

先週「Gの世界」を更新した時だよ。

これを見てくれ!!

初めて、hot itemに載った。あたいの書いてる「Gの世界」が!!!!

生まれてこの方、誰からも評価されなくても良い。

自分さえ面白いと思ってる作品を描き続けれれればそれで良い。

と言い聞かせて、納得して描き続けてきたけれども・・・やっぱり、こういう形になると、それはメッチャ嬉しかった。

自己完結させていければいいと思って、どんどん妄想を膨らませてきたけど、本当に嬉しかったんだよ。

と、そんなお話をしようと思ってました。

ありがたい事ですじゃ。

本当に。

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