2011年10月16日 19:44 CAT :
       

叱ってもらうわ。マイダーリン

色々と書くことを考えていながら、気が付けば、時間が経ってて、それでおしまい。

そんな事が多々ある日々を過ごしております。

思っていることは、日々移ろい行きつつも、心のどこかに影を落とし続け、それが、何だかどす黒い物語として、形をなしていくのであれば、それはそれで良いような気がしてならない。

さてさて。

先日、嫁の親族の葬式に参列してきた。

これまで生きてきた中で、直接的な親族が死ぬという事実にぶち当たった回数は実は、少ないほうかもしれない。

けれども、やっぱり、葬式ってヤツはどうにも好きになれない。

初めての記憶に残っている葬式は、大好きだったじいちゃんの葬式で、今のところ、あの葬式を超える凄い衝撃を受けた記憶がない。

急に、その人がいなくなる・・・と言う衝撃。

それまでは、いつでもあいに行けるわけで、当たり前のように存在していたのに、その日を境に、もうどうしたって出会うことが出来なくなる。

当たり前の現象だけれども、当時、それを子ども自分に体験するまで、どこか現実離れしたものとして認識してた。

人が死ぬということ。

あれ以来、葬式を経験する度に、そんな事を深く考えるようになった。

考えて考えて考えて・・・そして、しばらくして忘れてしまう。

そうやって時間をかけて、死ぬという事象について自分の中の置き場所を少しずつ確保していってる。

・・・つもり。

いつかは来る別れ。

それは、必ず近しい人、大切な人にまで及ぶ。

その日が来るまで、この行為を繰り返しつつ、来るべきその日に備えているんだと思う。

そうやって、脈々と人は死ぬことと向き合ってきたんだと・・・

もちろん、理不尽に奪われることだって多々あるだろうけれども、願わくは、そうならない事ばかり。

火葬は素晴らしい文化だと思う。

骨にすることは、実は、何よりも大切な儀式の一つ。

オレは、じいちゃんの焼けてもキレイに形が残ってた骨を見て、もう会えなくなったんだと言うことを何だか理解した。

綺麗に残ってた頭頂部の骨を箸で砕いて、骨壷の上に乗せたあの時の光景は未だに忘れることなく、はっきりと覚えている。

一緒に棺に入れたじいちゃんが大好きだった「赤福」の箱の赤が少しだけうつったあの骨の色を・・・

骨とは、白亜の色。

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