2007年12月8日 2:36 CAT :
       

孤独死余儀なく はばかれるは己の気持ち

昨日のブログに「どうも嫁ともども毎年この時期は変な感じになるんだけれど・・・」って書いたら、嫁に「まだ変じゃないよ」って言われた。

・・・まだ・・・ね。

マァ、それを包み込んでやれる甲斐性がオレにあれば問題ないんだろうけど、情けないかな、小じんまりとした器を必死で大きく見せているような男なもんで、あいつも色々大変だろうな。

もひとつ昨日ついでに、昨日の昔の写真。

嫁から「怖い」と言われた。

別に容姿がどうのとかそう言う意味じゃなくて、目が怖いと言う事だとか・・・悲しみを抱えて、死にそうな(消えそうな?)目だそうです。

オレとしては、別にそこの所はあんまり気にならないんだけどな~
で、最近の写真を載せたら?と言う提案もあったけども、そこの所は却下。

また、数年したらそれも気にならなくなるだろうて。

曲つくり再開しました。

今日は「るりゑ」って言う曲のドラム作り。

ほぼ完成したから、明日からギターとかベースパート作りだろうま。

この「るりゑ」は、今回書き下ろした歌詞の中では一番歌詞の落ちが素敵なものに仕上がりました。

落ち。

最近「落ち」って言えば、お笑いの事が頭によぎるだろうけど、「落ち」って言うのは物語の最後って意味でも使える。

オレが物語を作るときにとにかくこの「落ち」が一番気を使う。

と言うか、出だしと落ちを考えてから、それをつなげるプロセスを考えていくのが、オレの物語の作り方。

そして、内容と関係なくとも、落ちと関連するタイトルをつける事にもこだわる。

何でこうなってしまったかって言えば、もともとは漫画の神様「手塚治虫」先生の話になる。

手塚漫画といえば、真っ先に「アトム」とか「レオ」が出てくるかもしれないけど、オレが手塚漫画で驚愕するのは短編。

わずか10ページちょっと位で、テーマ性を持った起承転結をきちんとやって、その中に人間ドラマを詰め込み、なおかつ誰もが度肝を抜かれる落ちが用意されている。

そして、その後になってタイトルの本当の意味を知る。

(手塚治虫のすごい所は、内容とタイトルがマッチしてるのに、落ちを知った後にはそのタイトルが二重の意味を持つようになる場合が多い事)
物語とかを作った経験があるとわかるニュアンスだと思うけど、短く作るほうが物語りは難しい。

だらだらを書くほうが短くスパッとまとめるよりはるかに簡単。

それを10ページやそこらでテーマ性を持って心理的表現も含めた、起承転結でまとめられた作家なんか、手塚治虫以外にオレは知らない。

マァ長くなってしまったけど、要はそう言う話作りをしたいと思ってるわけです。

一時期、漫画で10パージ前後の短編ばかり書いてた時期があったのも、脚本で20ページくらいの短編を書いてたのも全てそのため。

結局、未だ少しでも満足のいくものは作れてないんだけど・・・

オレは天才じゃないし、手塚治虫と同じことなんかできるはずもない。

だからせめて、落ちだけ頑張って作ろうという事で収まりました。

それが今。

マァ、それを認めてくれる人だってそんな居るわけじゃないんだけれどもね。

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