2013年7月11日 22:22 CAT :
       

能面の笑顔と少女の時間

生きていく事に目的が必要なのは、きっと生きていく事が簡単だからなんだと思う。

生きていく事に必死だったら、生きていく事が目的になる訳で、そもそも「何のために生きている」って言う話にはならない。

生きていく事が比較的簡単になった国で生きています。

目的は分からない。

でも、最近、生きていくための目的とか、別に不必要になってきた。

これが、新しいステージだったら、良いのだけれども・・・

さてさて。

少し上の話ともかぶったりかぶらなかったりするけれども、楽しみ。

とはいかなものか。

そんな事をぼんやりと考えていた。

嫁が言うには、オレは、何かにつけて、楽しそうらしい。

自覚はないけれども、そうらしい。

うまい飯を食う。

眠いから寝る。

絵を描きたいから書く。

そんな感じの事が、最近、やりたい時に自由に出来ない。

だから、出来る時には、それはここぞとばかりに楽しむ。

とか、そんな事は実は当たり前のような気がしてならない。

けれども、世の中には、そんな事を楽しめない人の方が実は多いらしい。

基本的に、何でもかんでもやな事ばっかり。

仕事なんてやりたくない。

それでも、頑張ってやったところで、それが評価されるかと言えば、それも微妙。

むしろ叱咤激励と言う名の恫喝の方が多い。

そんな日常の中で、何でもないけれども、嫌ではない事が、むしろ楽しくなってきたのかも知れない。

それが楽しくないって事は、もしかしたら、なんだかんだ言いながら、世の中にやな事が少ないと言う、非常に幸せな状態なんだろう。

そんな人が結構多いって事は、実に生きやすい社会なのかも知れない。

ただ、ここにきて思う。

やな事が少ないから、日常の何でもない事を楽しいと感じられない。

やな事ばっかりだから、日常の何でもない嫌じゃない事が楽しいと感じてしまう。

どちらが幸せなんだろう・・・?
前者の方が、毎日を穏やかに過ごせるのかも知れない。

後者の方が、メリハリがあって楽しいのかも知れない。

ひとつ言える事は、人間、状況が停滞してしまうと息苦しく感じてしまう。

それは、自分のニート時代の経験から、間違いないと思う。

とすれば、前者の状況の場合、自分で自分を鼓舞して、無理くり状況を(むしろ、成長している方向に)変えていかないと、息苦しくなってしまう。

逆に後者の場合には、穏やかでいたいと思っても、周りに無理やし環境を(時には、好転し、時には、最悪の状況に)変えられてしまう。

どちらにして、結構な労力は必要になってくる。

自分で頑張るか、周りに引っぱりまわされるか・・・

結局のところ、何が一番。

とか、そんなのはないんだろう。

取りあえず、最近は、一番子どもに引っぱりまわされて環境が変わってる気がする。

でも、こいつに関しては、これまでのどれとも違って、なぜかそれが心地良かったりする。

志茂田さん。

親になるために悪戦苦闘していると言うことですな。

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