2014年10月24日 20:29 CAT :
       

セックス⇒受精⇒着床のテーマ

いつぐらいからか忘れてしまったけど、「テーマ」だとか、「訴えたい事」だとかがやかましくてしょうがなくなって来た。

それは、自分で作る物語や音楽、マンガなどは勿論の事、見る映画や読む本にまで及んで、とにかく、重苦しい「テーマ」とか、これ見よがしな「風刺」があるものを避けるようになった。

思うに、「テーマ」が必要であったり、「何か言いたい事」が無ければいけないと言うのは、「訴えたい事が無いけど訴えたい」と言う思春期特有のリピドーに起因するんだろう。

「訴えたい事が無いけど訴えたい」から、変に、「訴える理由」を考え、それが「テーマ」とかに固執する事に繋がってたのだろう。

大学時代の友人に、「ぶー」と言う人類の限界を超えつつある豚やろうがいる。

(このブログでも、チョクチョク出てくるけど…)
そいつとは、学生時代夜中まで、ダラダラ語り合ってたりしたんだけど、そんなどうでもいい議論の中で今も覚えてるやつがある。

(うろ覚えだけれども。)
「あんたの書くお話は、メンドくさい。」
「いやいや。

巷に溢れる何のテーマ性も無く、風刺も効いてないような物語よりははるかにマシやろ?あんなもんに価値は無いって。

お前の好きなジブリでも、ナウシカみたいな、風刺の効いたテーマ性のある作品は素晴らしいと思うけど、最近の千と千尋の神隠しとか、何のテーマ性も無いただの娯楽じゃねえか。」
「いや、オレは、その千と千尋の神隠しが一番好きなんやけど・・・」
「あんなテーマ性の欠片もない作品の何がエエと言うのや?」
「見ててほっこりするやん。

それに、チョイチョイ考えさせられるようなトコもあるし。

ナウシカは、見てて疲れるんよな。

マンガ版とかは、相当面白いけど。」
「ほっこりする中にも、ちゃんとした意味が無いとダメだよ。

あんなの、何となくなシーンの連続なだけで、退屈な映画や。」
・・・みたいな。

永遠の平行線をたどる会話だったような気がする。

そして、今オレは、「千と千尋の神隠し」が、大好きになった。

あの頃、散々言ってた「テーマ性」を「千と千尋の神隠し」に求めるなら、それは、エンターテイメントとほっこりの融合だったんだろう。

(あと、ロリコン。)
思春期特有の「厭世なオレカッコいい」と言う感覚が、社会風刺と、人類への警告をテーマとした作品以外を認めない。

となっていたのかもしれない。

でも、今になって思うのは、表現する。

と言うことに、テーマは必要ない。

と言うこと。

「表現する」と言う行為は、自分の中からあふれ出てくる「何か」を掬い取って形にする事で、必ずしも、社会風刺を伴う必要は無い。

社会に絶望し、人間に絶望し、憎悪だけに生きてきた人間が、その自分の中に溢れるやり場の無い憎悪を何らかの形で表現した。

とか、そんなものを、昔のオレは、社会風刺のきいたテーマ性の深い作品だ。

と思ってただけなのかもしれない。

今の生活から、オレは社会に絶望し、人間に絶望し、憎悪だけに生きてきた人間にはなれそうも無く、せいぜい、娘の可愛さにニヤニヤするだけのおっさんになってしまった。

そうなった時、人はきっと自分の中に「テーマ」が完成しているんだと思う。

だから、人が五月蝿く言うテーマ性が、ただやかましいだけになる。

テーマを押し出していない物語を見ながら、自分の中の「テーマ」と所々重ね合わせ、少し考えたりする。

そんな程度が、今は心地いい。

それでも、今、自分の中からモリモリと、イメージであったり、言葉であったり、メロディーであったりがあふれ出てくるから、それを何らかの形にしていってる。

それだけの事。

今書いてるマンガには、もうテーマ性はない。

アルバム「王道軽症」にも、テーマ性は無い。

もし、何かのメッセージを受け取った(と思った)のならそれは、気のせい。

もしくは、自分の中の「テーマ」があって、たまたまそこと、何か被っただけなんだと思う。

だって、オレは、何か強いメッセージを埋め込んでるわけじゃあないんだから。

ただ、思いついた書きたかったものを書いただけでしかないんだから。

でも、実は、それが一番難しい事にも少し気がついた。

オレも、それが出来るようになってきたんだ。

と、チョッとだけそれを嬉しく思う。

何も知らない子どもの頃は、それが当たり前。

自分のやりたいように絵を描いて、歌って、笑う。

大人になって、それが出来るようになるのは、大層大変な事らしい。

オレも、もっと子どもみたいに出来るようになりたいものですな。

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