- 2008年6月15日 16:06 CAT :
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バイバイ。僕らのキミと僕が行ってきた何か
人格における存在証明または同一性。
ある人の一貫性が、時間的・空間的に成り立ち、それが他者や共同体からも認められている事。
自己の存在証明。
自己同一性。
同一性。
それが、アイデンティティー。
(広辞苑より抜粋)
前までのオレにとっては、「モノを作る」と言う事がアイデンティティーだったように思う。それは、(↑)の説明を絡めて考えれば、周りからも「この人は色々とモノ作りをする人だ」と思われ~の、オレ個人も「オレはモノ作りしてる人だ」と思い~のしていたと言う事になる。
そして、それはもちろん、長期間に渡ってそう考えてきたのだから、時間的・空間的にも置いても言えると思う。
・・・多分。
ところが、ある日、モノ作りはそんな重要じゃなくなってしまった。
特に最近。
前みたいに、それこそ命を削る勢いで何かに取り組んだりはしなくなった。
せいぜい趣味程度。
アイデンティティーなど、今ではいずこやら。
・・・オレのアイデンティティーは何だ?
そうなった時に、ふと気が付いた事がある。それでも生きてる。
人間はアイデンティティーが無いと生きてはいけないと、よく言われるけれども、そんなもの無くたって生きていけるみたいだ。
植物を見ていると良く分かる。
植物たちは、例えば、光合成をする事で酸素をいっぱい出していたとしても、それを自らのアイデンティティーとして、存在している訳じゃあない。
うにんを見ているとよく分かる。
うにんは、例えば、可愛いしぐさをして周りの人を和ませる事が出来たとしても、それを自らのアイデンティティーとして、存在している訳じゃあない。
生き物は、ご飯を食べて、いっぱい寝て、いっぱい遊んでいれば、アイデンティティーなんか無くても生きられるみたいです。
アイデンティティーが無いと生きられないと言うのは、何とも言い訳のような気がしてならなくなった。
大好きな「ケラリーノ・サンドロビッチ」のバンド「有頂天」の最も訴えたかった事は「この世は無意味」の一言に尽きると思う。
それを見事なまでに表現した名曲「BYE-BYE」は、何度聞いてもしみじみと浸ってしまう。
もちろんオレも込みで(昔はとにかく何事においても、テーマを求め続けてたし)この世の中は、何事にも意味を求めすぎている。
漫画、音楽、映画、小説、演劇、ドラマ・・・それら全てに深いテーマ性を込めて、意味を込めて、訴えたい事を込めている。
その究極系が、生きていく上での意味「アイデンティティー」だと思う。
でも、もっともっと基本に立ち返った時に、本当に意味は必要なんだろうか?
生きてる事に意味なんか無い。歌を歌ってる事に意味なんか無い。
歩いてる事に意味なんか無い。
絵を書いてる事に意味なんか無い。
寝ている事に意味なんか無い。
何かをやろうとしている事に意味なんか無い。
人を好きになる事に意味なんか無い。
数を数える事に意味なんか無い。
誰かを嫌いな事に意味なんか無い。
本を読む事に意味なんか無い。
意味を求める事に意味なんか無い。
最近は、モノを作る時にそんな観点を重視して作るようになった。
もちろん、「エデン統合地獄変」だってそうです。
あの、物語に意味なんか無い。
テーマだって無い。
読んだ人、見た人があの物語で「社会風刺が入ってるね」とか「生きる事の意味を考えさせられた」とか勝手に感想を持つかもしれない。
でも、オレはそんなメッセージなんか込めてない。
ただ頭の中に意味無く降りてきた言葉や展開を、そのまま意味無く文字に表現しただけ。
意味を求めるから、大変なんだし、意味を求めるから、重くなる。
前述の有頂天の「BYE-BYE」は、それら全ての意味の無いものを捨ててしまおうと言う「究極の無意味な歌」。
アイデンティティーで、生きている事に悩んでいる人には、何を置いてもこの歌を聞かせてあげたい。
もちろん、その行為にだって意味なんか無いのだ。
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