- 2008年6月30日 23:37 CAT :
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誰も望んで地獄には落ちない
オーケン率いる「特撮」の「揉みまり」と言う歌が物凄く好き。
古い温泉宿にある、古びた「揉みまり」。
明日には捨てられる運命にある「揉みまり」が最後に揉んだのは、自分の愛する人をそこの旅館で殺害した殺人者だった。
でも、明日には捨てられる「揉みまり」は、誰の背中でもグイグイ揉む・・・そんな歌。
こんな発想が出来るって言う事の素晴らしさ。
それは、ものに対する執着・・・もっと言えば、古き日本にあった「アニミズム」。
八百万の神に付随する神道のように思う。
それは、自分が大切にしてきたモノだけではなくて、ありとあらゆる、ほんの行きずりに見かけた古びた「揉みまり」にすらも、その感情を抱く事の出来る素晴らしさ。
日本人が忘れてしまった大切な何か。
暖かい気持ちになれる歌です。
さて。
とある風景の写真。
大自然は、何かを媒介した瞬間に途端に、その雄大さを失ってしまう。
嫁曰く「この瞬間、そこにいた人だけが感じて、見ることの出来る素敵なもの」が確かにそこにはあった。
それを、もう1度見ようとか、誰かにも見せようとか言う邪まな考えで記録しようとすると・・・(↑)みたいになってしまう事は、誰だって知っている。
それでも、人はやっぱり写真を撮ったり、記録に残したりしようとする。
誰の為に。
何の為に。
そして、誰が何のために、嫁曰く「素敵なもの」をその場所にその瞬間いる人にだけ見せようとするのか・・・そこには、何らかの意味ならぬ「意思」が存在するような気がしてならない。
つまり・・・本当に、自然の気まぐれ、偶然であるのなら、その場所にその瞬間いなくても、それを共有していいのではないか・・・と。
その「意思」の存在こそが、冒頭の日本古来の「アニミズム」なんだと考える事は、理論の飛躍なんだろうか・・・
ただ、そう考えた時、この世の全てが、一つ一つ小さく、そして大局的には大きく包み込んでいる感覚を何とはなしに感じ取る事が出来ます。
この瞬間、今を感じている全ての人に捧ぐ。
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