2020年10月27日 1:29 CAT :
       

「世界の中心で愛を叫ぶ」を見ての感想 6年ザクロ組 しもたろうに

先日「スイスアーミーマン」と言う映画を見た。

まぁこれが何だ。久々に、心をグンと引き寄せられるような感覚になるほどの衝撃を受けた。

そして「いや~映画って本当に良いものですね」と水野晴郎のように思った次第です。

その結果、久々にここ最近は、映画見倒してた。

流れは下記の通り。

「ヒミズ」を見て、最後の「住田頑張れ」で涙が止まらなくなった。号泣した。

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泣ける映画つながりで「さとうきび畑の唄」を見て、森山良子さんの歌声とさんまさんの演技で隣の寝室で寝ていた嫁に「めっちゃ泣いてたね」と言われるほど嗚咽を漏らして号泣。

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「さとうきび畑の唄」がTBSオンデマンドだったことから、つながりでアマプラで「世界の中心で愛を叫ぶ」を発見。

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これ、そう言えば見た事なかったよな。アマプラで今月中に配信終了か。これも、めっちゃ泣けるドラマらしいので、これを見てみるか。

と言う事で、先週末からドラマ版11話を一気見した。

本当なら、「スイスアーミーマン」の感想をつらつら描きたかったんだけど、あの話はあれだ。一回流し見したくらいでは到底語る事は出来ないので、また、その内もう1回くらい見てから書くことにして、今日のところはもう一つの「世界の中心で愛を叫ぶ」の感想でも書こうと思った次第です。

さてさて。

という訳で、11話全部見たよ。

考えてみたら、ドラマを全話通して見たのって結構久しぶりだった気がする。

前に見たのは「帰ってきた時効警察」だったか。・・・その位ぶりだ。

先に結論を書いておこう。

正直、全く泣けなかった。

何だこのドラマは。となった。

なぁ~にが純愛ドラマだ。馬鹿野郎。これだったら「ヒミズ」の方がまだ純愛映画だ。

ドラマ版を今回見た理由としては、映画版では感情移入しづらいとか、じっくりエピソードを重ねるドラマ版こそ至高。と言った「なるほどな。なるほどなるほどなるほどな」な感想が散見したらなんだけど、それは確かにそうだった。

いや、映画版見てないけど、ドラマ版でもその部分については否めなかったので、これが2時間程度の映画尺なら何をいわんやと言う感じ。

ただ、そのじっくり重ねたエピソードがぬるくて、死ぬほどかったるい。

こんな言い方して良いのかどうか分かんないけど、命を懸けた、しかもその後の人生をずっと揺さぶるほどの大恋愛とは思えないほど、二人の付き合ってる描写が超希薄。

まぁ、地上波ゴールデンのドラマなのでと言う部分はあると思う。淡い高校生の恋愛なんだらかね。

実際見ようによっては、「このシーンでセックスしてますけど、それはわざわざ描写しませんよ。大人の方は分かりますよね」と言う演出が部分的にあるので、まぁ、この2人は男女の関係ではあったんでしょうね。と言う事は分かる。それはそれでいいんだよ。

でも、お互い告白して、好きになって、チョッと付き合ってる風なエピソードを重ねて、その後セックスしました。程度じゃねえか。と。

いやいや、それだったらオレと嫁がこれまで積み重ねてきたエピソードの方がよっぽど濃ゆいつ~の。こんな一般人が普通に嫁と過ごしてきた年月と比べても「う~ん。恋愛ごっこ」と思えるようなでしかないんだよな。

あと、主人公のサク君に対して、もう、これはホントに自分本位過ぎてただただムカつく。

何だこいつ。まぢで、周りの人の気持ち全く考えないで自分の事しか考えてない。

それにムカついてしょうがなかった。

今回、ドラマを見ていく上で、気が付けばオレは2つの目線で物語を追ってた。

ひとつは、結婚前の自分とサク君を重ねた見方。

もう一つは、娘を持った父親として三浦友和扮する亜紀ちゃんのお父さんに自分を重ねた見方。

自分が、高校生の頃の彼女が病気で死にかけていたとしても、「何考えてんだ?こいつは?」と思う。

自分の娘に彼氏が出来て、その彼氏が死にかけの娘を連れまわされて、症状を悪くさせているとしても「何考えてんだ?こいつは?」と思う。

これ結局のところは、高校生の頃の思春期特有な「自分がこの世界と言う物語の主人公」だと思い込んでいるヤツが、自分の事だけを考えて、周りを振り回した結果、一人の女の子を死なせちゃったと言う物語なんだよね。

サク君も亜紀ちゃんも全く相手の事や、周りの事を考えてないままに、ヒロイックな感情に浸って自己満足で死んでいったり、殺したりしてるだけだろう。

ただ、そういう荒唐無稽でも若い男女の恋愛もののドラマに仕立てたい上の人と、それに抗うかのような物語としての完成度を求める監督さんの矜持かなんかだろう、「そうじゃないんだ」と言う意図での演出があって、それはすごく良かったと思う。

大人の人のそれぞれの感じが凄く良いんだよ。

演者さんがやっぱり素晴らしいよね。

そんなこんなで、前半はムズムズするような淡い恋愛ものとして、後半は感動ものとして見れる。いや、見れてたんだ。だから、最後まで見る事が出来た。

問題なのはラストの2話。

こんな事をド素人のオレが言うのはどうかと思うけど、演出のセンスがあまりにも無さ過ぎて、一番いいところで全部台無しにされた気がする。

いやね。上記に言ったような粗について言えば、それは「さとうきび畑の唄」でも散見されるんだよ。結婚式の日に赤紙が届くようなご都合主義だったり、無理やりな説明口調だったり。

それでも、あのドラマが嗚咽を漏らすほど感動するのは、それを気にさせない位、物語に没入させてくれる演出の力が大きいと思う。

実際に、序盤のじいちゃんが死んじゃう付近とか、8話辺りの結婚届を出すあたりのシーンではウルウルしてたんだ。

8話なんて、かずきくんのシーンでもウルウルして、現代、過去両方のシーンでジーンとしてた。

特に9話なんて、すごく良かったと思う。高校自分と父親自分どちらから見ても、「そんなんずるいわ。こんなの泣くわ」と思ってしまう。この辺りでは、前述の物語の粗とかどうでも良くて、それぞれのキャラクターに感情移入して没入できてた。

なのに、10話で突然現実に引き戻された。

10話、11話ではご都合主義な展開で、冷静に見れば「お前ら何やってんの?バカじゃねえ?」と思わせる要所要所のシーンで、監督の「ほら、このシーンでこういう事すれば、お前ら泣くんだろ?泣くよね?」と言う意図が露悪趣味的に出てくる。そのせいで没入できないので、変に冷静になっちゃって、ご都合主義な展開が気になって、物語に集中できない。

くっそひどいのは10話の空港シーンでの「助けてください」のシーンで、なぜか二人の周りをぐるぐるカメラが回ってる演出とか。いや、そこは、淡々と俯瞰からシーン映すだけでもいいじゃん。

無音で倒れる → 音楽が盛り上がってくる → 最高潮のところで二人の周りをカメラがグルグル回る。

どれだけ物語に没入してて、感動してたとしても、耳元で監督が「こういう演出したら泣きたくなるよね?ほら、泣きなよ。泣きなよ。カメラぐるぐる回ってるよ」ってずっと語りかけられたら、冷めるっつ~の。

極めつけは最終話。

亜紀ちゃんのお葬式に行くことを拒否するサク君。

このシーンでもさ。お葬式のシーン自体は物凄くいいんだよ。(読経してる時に「この棺桶には亜紀が入ってますよ」と説明するために顔が出てるとか、「今お葬式にサク君来てませんよ」と説明するお葬式なのにサク君の座るイスが空いてたりとか、視聴者を「バカ」と決めつけたくどいほど説明調な演出は多少あるけれども…)

両方のお父さんが頭を下げあうシーンとか、すけちゃんが棺桶にブルーハーツのテープを入れてるシーンとか、松下由樹さん「がんばったね」のシーンとか。ホント良いシーンがいっぱいある。

あるんだけども、そのチョッと感動するシーンを細切れにして、その合間合間にお葬式に行かなかったサク君のシーンを入れ込む。

サク君はなぜか、どこかへ向かって走ってる。

なぜ走る?

どこへ走る。

で、雨で振り出したら糞サブいよなと思いつつ見てたら、やっぱり降る雨。

って事は、コケて血とか流すんだろうな・・・と思ったら、やっぱりコケる。そして、血が出る。

なんか、昔、「魔法使いグルグル」ってマンガで語ってた、作者の江藤ヒロユキさんの「大人の人に言われて書いてけど、自分で見るとこっぱずかしくなる扉絵」の話を思い出した。

そうなんだよ。

絶望して走り出してると、雨が降ってその中でコケるって言うのは、スポンサー受けいいんだよ。物語とか全然どうでもいい大人たちからしたら、そういう「それっぽいシーン」があると喜ばれるんだよ。物語としては、糞サブいけどな。

物語としての完成度とか、視聴者の没入感とかを全無視して、物語を台無しにしてでも、えらい大人たちの方を向いてるなきゃこの演出はないだろ。

クレヨンしんちゃんの大名作「大人帝国の野望」のラストのシーンで、しんちゃんがただただ走るシーンを30秒以上連続して映すと言う演出をしてる。

このシーンで、原監督が「しんちゃんが走るシーン」を細切れにして「エレベーターで昇るケンチャコ」や「ボロボロになったヒロシたち」をチョコチョコ出した方が、偉い人の反応が良い事は分かってたはず。それでも、そのシーンを一切省くことで、しんちゃんの感情と見る人の感情を同一化させて、その後の「大人になりたいから!」のシーンが一番盛り上がるように作ってるんだろう。

実際に、「大人帝国の野望」はえらい人たちの評判はすこぶる悪かったらしいし。

そう言う計算じゃなくて、「カメラぐるぐるとか、走ってたら雨が降るとかって何か感動するだろう?」とか「細切れにしとけば、なんか画面持つし、緊迫感でるだろ?」とか「流し見しかしないえらい人たちでもこういう事しとけば、評価されるだろう」とか、そういう意図で演出されたら、どんな素敵な物語でも萎えるんだよ。バカ野郎。

そんな感じで、最後まで見切って、監督のクレジットに「堤幸彦」とあって、全てを理解した。

あぁ、そう言う事か。と。

あとで、見直してみれば、メインの監督は堤幸彦さんだけど、オレが「いいな」と思った話は全部、別の人が監督してた。

唯一最終話で良かったのは、高橋克実さん演じるお父さんが「好きなだけ周りを振り回して、悲劇のヒーローは大威張りだな。なさけねえ。」とサク君に吐き捨てるシーン。

あのシーンは良かった。ホント、ずっと心の中にあったわだかまりを全てさらけだしてくれた。

あのシーンで、最終話、萎え萎えな気分になってたお父さん目線なオレにやっとカタルシス的なものを味合わせてくれた。

でも、そのシーンでもバストアップを多用して、構図を切り換えまくり。

「淡々とした会話だから、飽きさせないよう構図切り換えまくってたら、偉い人達も気に入ってくれるよね」と言う意図が見え見えでげんなりだけどな。

あんなに高橋克実さんが素晴らしい演技で、それこそ11話全部をひっくるめた最大のカタルシスを与えてくれようとしてたんだから、その演出は邪魔なんだよ。切替最低限に抑えて、引いた構図から淡々とシーンを流してたら、後ろにうっすら写ってる仏壇からおじいちゃんも優しく眺めてくれてる最高にいい構図だったんじゃねえのか。

その上で、演者さんの細かい所作だってシーンに残ってたはずだ。

最高の素材で作られたディナーの最後の締めに出されたデザートに「デザートって甘い方が良いでしょ?」って、山盛りの砂糖をぶっかけられて、それまでのディナーの余韻も、デザートの味も全部台無しにされた気分。

まぁ、そんなこんなで長々と書いたけれども、ドラマとしては、良いドラマだと思うんだ。

最終話まで見切れるドラマなんてなかなか無いようなオレですので。

ただ、世間の評価程ほど泣けない。

泣けない一番の理由は、よく言われている「堤演出」の賜物であることはまごう事ない。

物語自体は、強引でご都合主義な所はあるけれども、よく言えば超王道で、やっぱり王道っていいなと思わせてくれる素敵なお話しだと思う。

あと、最後に。オレは堤監督の演出方法自体が別に嫌いってわけじゃないとだけ。

そもそも「trick」とか、死ぬほど大好きなドラマな訳だし、あのドラマなんて、堤演出が無ければホントグダグダでどうしようもないものになってたのは、誰がどう見たって間違いない。

「自虐の唄」って映画も、大好きで何度見ても泣いてしまう。

カメラぐるぐる演出だって、「自虐の唄」の最後の幸恵ちゃんと熊本さんの再開のシーンでは、グルグル回るほど感動できてた。

堤演出だと泣けないという訳でもない。

ただ、「世界の中心で愛を叫ぶ」と言う物語と堤幸彦と言う監督の相性があまりにも悪かっただけだと思う。

ホント、使い方なんだよ。

三池監督と堤監督と言う偉い人達から見た、評価の高いものを撮ってくれる2代巨頭監督。

コケる事が許されない鉄板のコンテンツだっただろう「世界の中心で愛を叫ぶ」だったからこそ、この偉い人受けの良い堤監督が抜擢されちゃったんだろうね。

そして、堤監督自体は本当にすごい人だから、その偉い人受けの良いものを作っちゃうんだよ。

期待に応えることが100%出来る監督なんだよ。

ただそれだけが、非常に残念。

この物語だったら、もう少し徹底したリアリズムを追及するタイプの監督さんだった方が良かったのかも知れない。

と言う事で、しばらくしたら、映画版の方も見てみようかなと。

行定監督だそうなので、もしかしたら!!とチョッと思いつつ、「濱マイク」の監督だよな・・・とも思っております。

いや、「濱マイク」めっちゃ好きだけれども・・・

あぁ、長々書いた。

では皆様。

また次回。

このドラマ見ると、綾瀬はるかさん好きになるよね。

そして、山田孝之さん…ウシジマくんとか「凶悪」の藤井記者とか、この人ホント演技力えぐいよね。

 

 

 

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