2021年7月28日 11:30 CAT :
       

「オレ・・・君のふんどしで精子まき散らす全力オナニーするよ」宣言~その1

と言う事で・・・1回書いてみて、良い感じだったら、今後、ちょくちょくマンガレビュー的な事を描いていこうかと思っております。です。

以前、メッチャ調子に乗ってCDとか買うたびに、超上から目線で感想書いてた事があった。

たまたま、犬神サアカス團の明兄さんがこのブログを読んだと言う話を聞いて、それ以降「本人が読む可能性があるのか!」ってビビり始めて、次第にこういうレビュー的な事は控えるようになっちゃったんだよな。

今からやろうとしていることは(↑)以上に、作者さん本人の目につく可能性が高い・・・ような気がする。

なので、予め言っておくと、貶めるような意図は全くないよ。基本的に好きな作品を好意的にとらえて、オレなりに掘り下げて文章にしてみてるだけ。それ以上の他意は一切ないので、その点悪しからず。

あと、一応、前回チラッと書いた予防線についてもコピペしておくか。

●内容の掘り下げについては、岡田斗司夫風の解釈(作者の思惑ではなく、そこから発展した読者の掘り下げ)で。

●新都社にアップしてる作品(もしかしたら、「まんがおきば」さんの方でアップしてるものもあるかも)

●完結してる作品(なんとなく完結して初めて作品だと思ってるので、現在連載中、休載中、ぶん投げてるやつは省く)

●オレが好きな作品(ただし、思いついたものを取り上げてるだけなので、取り上げない=好きじゃないという訳ではない)

と言う基準で。ただ、この中の一つ、「完結してる作品」の縛りが思ったより、今後重荷になりそう。なんか早い段階でネタ切れするか、この縛りを撤回しそうな気がしないでもない。まぁ、そこまで回数続けばだけども。

さてさて。

と言う事で、記念すべき第一回で取り上げる漫画はこれだああああああああああああああああああああ!!

 

 

 

甘納豆先生作 「CMYK」

うん。言いたい事は何となくわかる。攻めてないとか、そういう話なんだろ。

甘納豆先生なら怒られないかなと言う甘えと、実はこの漫画すげえ語りたい事があると言うそんな2点から選んでみたんだよ。文句は知らん。今回はコレで行くんだ。バーロー。なんか前に、ラジオで語り倒したいって話してた記憶もあるし、第1回はコレで行くんです。あたくしわ。

取り合えず読んでくれれば、何でこの作品を取り上げたのか分かって貰えると思う。って言うか、そう信じたい。

実際書き終わってみてみると4000文字を超えていた。オレはこの「CMYK」と言うマンガで原稿用紙10枚を超える量の感想文を書いたわけですよ。その位語りたい内容があったと言う事だ。ぶっちゃけて言えば、半分くらい悪ノリだけれども。

では、以下チョットだけ夏目房之介を意識しつつ、考察してみようか。

ネタバレしかしないので、未読の人は先に漫画を読んでから(すぐ読めるので)、この記事を見て欲しい。

 

 

 

ここからは純粋な感想ですよ~

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

 

 

 

僅か5話しかないんだけど、正直、この作者の作品の中で一番気になっているものがこの「CMYK」。

その前にまずこの「甘納豆」と言う漫画家さんの作家性について少しだけ触れておく。

基本的に全作品に目を通しているが、その中で最も感じる事は、この作者の根底にある意識が「破壊」であると言う点に集約されていると思う。

形はそれぞれあるにしても、どの作品にも共通して「破壊」がある。

我々が生きているこの世界は2極性であり、ただ破壊だけで終結することはできない。「破壊」を行う時、必ず対を成す「創造」を行う必要がある。

甘納豆作品には、あらゆる形での「破壊」があり、その後に往々にして創造されるものは「無秩序」の場合が多い。ただし、一見すると「無秩序」ながら、俯瞰的にその「無秩序」を見ると実は、かなり秩序だったものを内包している。

この相反する二面性こそが、最大の特徴だと考えられるのだ。

マンガの神様であり、稀代のストーリーテナー手塚治虫は、破壊の後に無秩序があり、その無秩序が秩序に帰納する物語を読者は面白いと感じる。となんかで語っていた。

手塚治虫の大名作「ブラックジャック」では、ブラックジャックが既存の価値観を破壊し、法外な値段や奇想天外な治療などの無秩序を突き付けるが、その無秩序が実は最も秩序だっていたと言うオチが付くことで読者はそのストーリーに心を揺り動かされる。

この手塚式の名作ストーリーを制作する上でのノウハウに近いものが、甘納豆作品に共通する作風ではないだろうか。

手塚治虫の「マンガの描き方」を熟読しているかどうかは分からないが、ストーリーには確実に手塚の血脈が流れていると感じざるを得ない。

その上で、今回取り上げる「CMYK」における「破壊」と「創造」とは一体何なのかについて、以下考察していく。

まずこの漫画のスタートは4コママンガである。

4コママンガの歴史はかなり古く、確か、江戸時代に描かれた北斎漫画にはすでに4コマに分けた起承転結の物語が描かれていたと記憶している。

時代を経て戦前・戦後に発表された数々のマンガの原型となったものが実は4コママンガだともいえる。その時代には4コマ落ちが無くても、マンガのコマ割りの大きさは基本的に同じ大きさだった。

手塚治虫のプロデビュー作は、4コママンガ「マアチャンの日記帳」だし、手塚治虫を世間に知らしめた「新宝島」におけるコマ割りもそのほぼ全てが同じ大きさの4コママンガのような形だったはず。

それ以降、手塚治虫が初期3部作(「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」)~火の鳥初期にかけて、コマの大きさやコマとコマの間などを変える事で映画的な演出をするという画期的な方法を発明し、カンブリア紀の生物の大爆発に匹敵するほど膨大なコマ割りを開発した。(その辺の、コマ割りの変遷とかは今回は関係なので割愛するけれども)

そんな中にあっても、4コママンガは、世間の求める漫画像と一定の距離を置いて発展していく。

古き良き4コママンガを植田まさし、いしいひさいちらが守り続けていく一方で、80年代後期くらいから吉田戦車や中川いさみを筆頭にした起承転結さえも投げ捨てたナンセンスで不条理な4コママンガが台頭し始める。

90年代になってくると、「日本一泣ける4コママンガ」と評される「自虐の唄」などに代表されるような、4コママンガと言う形をとりつつも一つ一つの前後関係の繋がりが濃厚になる物語系4コママンガも日の目を見始める。

そして90年代末には、あずまきよひこをはじめとした作家によるオチや展開よりも、淡々とした日常の中でキャラクター自体やかわいらしさを愛でると言った「萌え4コマ」も登場する。

ただ、この4コママンガのムーブメントの中で(特に「萌え4コマ」が台頭し始めた頃)度々持ち上がっていた問題として、1つの4コマで完結しないどころか、4コマで落ちる事もなく、次の4コマに物語を渡してしまうのであれば「4コマじゃなくてよくね?」と言う根源的なものがあった。

この問題については、日本4コマ界の重鎮である植田まさしが直接苦言を呈するほどに大きな問題となっていき、今もまだその論争は終結していない。

2000年代以降は、4コママンガの存在意義、4コママンガとして描くことの意義を考える時代だったと言えるかもしれない。

閑話休題。「CMYK」に話を戻す。

第1話。人物紹介と普通の4コマ。一応、キャラ付けの意味がある1話。

そして第2話。連載2話目にして早々に4コマ漫画の体をなしていない普通のマンガになる。これは問題として度々上がっていた「4コママンガである必然性がない」と言う問題に対して、「じゃあ、普通のマンガにしちゃえばいいじゃん」と言う、既存意識への強烈な破壊に他ならない。しかも、1話でさらっと触れた人物像への掘り下げをよりわかり易くする形で、それが行われている。

そもそもこの第2話でのネタも4コマで、2つくらいに割れば全然描けるネタである。それをあえて普通のマンガとして描いている。

意図してなければ、わざわざ2話目で4コマの形を崩す意味なんかないはず。

一旦破壊を起こした後の3話目では、再び4コマの形に戻る。

と思ったら、4話目はまた普通のマンガになっている。

一見無秩序なように見えて、4コマのちょっとした小ネタ⇒普通のマンガの繰り返しと言うパターンかと思いきや、最終話5話目では、そのパターンすら破壊して、もう一度普通のマンガ形式をとる。かつ、5話目にして初めて、それまでの展開の伏線を細かく回収していくと言う違う方向からの秩序を構築している。

あわせて、これまでの4話をどちらかと言えば、萌えマンガに近い日常系のノリで展開していたのに対し、最終話では、王道のドタバタギャグの要素を織り交ぜてきている。

特筆すべきことは、1~5話を流れで読んでいた時にゆるい4コマだったはずのマンガが、4コマじゃなくなってて、さらにドタバタギャグマンガになっていることに読者が全く気付かないまま、この漫画を読み終える事が出来ると言う点にある。

これは綿密な計算の上で、絶妙なスピードでの移行が無ければ実現できない。長期連載していて、気が付いたら全然違うマンガになっていたと言う事はままあるが、わずか5話でこれを実現するには相当のバランス力が要求される。もし緻密な計算とかしてなくて天然でやってるなら、それはそれで天才の部類だ。ちっくしょ~

気が付けばとんでもない漫画になってたなと言う、刷り込みとすり替えはかなり高等技術であり、マンガ力が相当高いことが、この事からも伺い知れる。

併せて、この「落ちが無くて続くなら4コママンガである必要なくね?」と言う問題に対して「じゃあ、普通のマンガにしちゃえばいいじゃん」と言うコペルニクス的発想の転換は、見様によっては大友克洋が「童夢」で描いた超能力の2次元表現を、荒木飛呂彦がジョジョの第3部で3次元表現に昇華したレベルの革命。相当に画期的な発想ではないだろうか。

ストーリー漫画におまけで4コマが付いたり、4コママンガでストーリーを展開するのではなく、「めんどくさい事は良いんだよ。4コマだけど描きたくなったら普通のマンガで描くよ」となるマンガは思ってる以上に存在しないはず。

なぜ今回「CMYK」を取り上げたのかと言えば、上記の通り、手塚治虫が提唱した破壊と創造、秩序と無秩序をストーリーの中ではなく、作品自体の表現の形の中に埋め込み作品として完成させている点に他ならない。

漫画独自の展開の移り変わり。漫画表現のイノベーション的体験をたった5話、読もうと思えば5分で読める分量の中で、それもほぼ無知覚に体験できると言う非常に稀有な漫画がこの「CMYK」である。

まぁ、そんな夏目房之介風な小難しい話抜きにして、単純に空気感が好きで読んでて面白いって話もある。言っちゃえば、単純についつい何回も読み直しちゃうくらい好きな漫画だと言える。

他にも、タイトルのCMYKを4色の色として、キャラクターごとに色とその色から連想されるキャラ付けをすることで、読者が入りやすくなるように工夫されていたりとか、そういうマンガ的な細かいノウハウの話もまぁまぁ出来るんだけど、とりわけ、この漫画に置いて一番言いたかったことは、(↑)の話だと言う事で、今回の記事は結びとしよう。

次回は、今年初めころかなり衝撃を受けた、展開自体が圧倒的に不条理なあのマンガを取り上げようと思っております。

この記事で怒られたりしなければ、多分・・・

では最後に・・・

うまく描けねえもんだな。まぁ、こんなもんですよね。オレなんて。

取り合えず・・・

怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように怒られませんように!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

この記事を見てみる  ⇒

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA