- 2011年9月3日 16:20 CAT :
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初めて口にする人肉はとても甘く芳しく柔く
「神聖かまってちゃん」の曲を聴いた。
初めに聴いたのが「ロックンロールは鳴りやまない」(だっけ?)だったもので、すごいバンドが出てきたのかと思ったけど、それ以外のどれを聴いても、ただの僻みしか、そこには存在しなかった。
だったら、筋肉少女帯の「蜘蛛の糸」を聴いてた方が気分が良い。
誰もが持ってる負の感情。
それを、ただ、そのままに外に出してるだけだった。
絶望的な、悪意。
負の感情を、どす黒い物語として紡ぎ出すから表現なのであって、あれは、そんなものじゃあない。
「神聖かまってちゃん」ファンの皆様方には、是非ともナゴム時代の筋肉少女帯を聴いてもらいたい。
そうすると、きっとこの話の意味もわかると思う。
さてさて。
「永遠の向こうにある果て」の執筆もひと段落。
次の新作「子どもは老人に励まされる」に取り掛かるまで、少し休憩でもしようかと思いつつ、今、せっかく乗ってるし、このまま取り掛かってやろうとも思っている。
う~ん・・・どうしようかなぁ~。
そんな中、頭の中でひとしきり考えて見た。
「殺す」と言う事について。
オレの作品を読んだり、見たり、聞いたりした事のある変態さんがたには、ずた漏れかと思うけど、とにかく、オレの書く物語は殺害のオンパレード。
それが、時には「快楽殺人」だったり、「自殺」だったりと形は色々では、あるけれども、人が死なない話とか、多分、無いような気がする。
あまつさえ、カニバリズムに走るものまで結構ある。
・・・で、次の作品。
「子どもは老人に励まされる」もご多聞にもれず、しっかり殺害行為がある。
生き生きと殺す。
と言う事で、その前にそもそも「殺す」と言う行為について、少しだけ掘り下げて見よう・・・と、思った次第でございます。
そもそも、生命活動を強制的に(時には、暴力を伴いつつ)停止させる行為を「殺す」と言う、動詞で表現していると、今は、取り合えず考える。
ただ、なんと言うか、オレの中にある「殺す」に対する感覚は、英語で言うところの「KILL」とは、少し違ってたりする。
生命活動を停止させる。
その行為よりも、その背景にある行為に及んだ人間の心持こそ、何をおいても大切に考えるべきだと思う。
行為じゃあなくて、意思。
「殺す」と決めた理由が例えば、憎しみだったとする。
でも、憎しみを晴らすために殺す事は、ひとえに、「どうしても許せなかった。」とか、「あいつのために殺した」とか、一様に、なんだか、相手(ここで言うところの殺す対象)の存在があり、その相手に対する感情があったりする場合が何しか多い。
もしかしたら、「殺した分の罪の重さ、命の重さを背負って、これから先、罪の意識と共に生きる。」そんな、覚悟さえ、なんだか、垣間見えてきたりする。
それが、殺す。
と言う行為なんだろう。
日本式の「殺す」には、そんな背景をみている。
で、欧米式の「KILL」に対してはどうかと言うと、そこはそれ。
相手に対する感情のない、本人の感情のみを優先した行為じゃあないか。
そうでなければ、「エノラゲイ号」を英雄視している、アメリカの倫理観をどうしたって、納得する事が出来ない。
蔑み、嘲笑の的とし、自分たちの感情の為だけに殺害するわけであって、その殺した相手は、叩きつぶしたゴキブリと同じようにしか考えていない。
それが、「KILL」の感覚だと思う。
歴史的背景。
文化的背景も多々ある。
肉食の欧米だからこそ、生き物を殺すと言う行為に対する、日本とは違う価値観を持ち合わせている事も当然な訳で、そこに良いとか、悪いとかは存在しない。
ただ、そうあっても、オレが日本人な以上。
どうしたって、日本式の「殺す」の感覚が好き。
「殺す」と言う行為は、決して、痛快な行為じゃあなくて、ほの暗く、もの悲しい行為なんだと思う。
これからも、ずっとずっと物語を作り続けていくと思う。
けれども、どんな物語だとしても、どれだけ人が死んだとしても、その大前提だけは、崩す事のないように。
いつの時代でも、殺害のイメージは「兄の病の特効薬は死臭漂う血の池地獄のような人肉スープの形而上学」なのです。
オレの場合わ。
殺す時は、相手の目を見て、テンポ正しく刺しましょう。
血液のワルツが、あなたを彩ってくれる事でしょうね。
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