2012年7月22日 23:51 CAT :
       

夏なんです

いじめの話はもう飽きた。

例えば、加害者のやつが自殺したり、テヘペロ校長や、鼻歌担任が自殺すれば、その時に、ネットがこいつ等をいじめて自殺に追いやったとかになるんだろうか。

こいつ等は、万死に値すると思う。

それこそ、二度と社会に出てこれないように、凄まじい制裁を受ければ良い。

何だったら、死刑でも全然良いと思う。

でも、今の追いつめ方はこいつ等がやってたいじめと大して変わらないんじゃないかと思う今日この頃。

そうじゃない方向に、社会的な制裁が加えられればいいなぁ。

さてさて。

相も変わらず、死ぬことと生れ出ずる事について考える日々。

これまでも沢山そんな事ばかり考えてきた。

物語を作り出す時いつも頭の片隅にあるのは、死ぬことと生きる事ばっかりだ。

でも、こんなに色々考えた事は、あんまりなかったかもしれない。

やっぱり、本当の死ぬと言う事を目の当たりにすると、いかに浅はかな妄想だったのか思い知らされる。

戦後すぐの作家さんたちは、戦前戦後に嫌と言うほど人の生き死にを実体験として見てきたからこそ、リアルな物語を紡ぎ出す事が出来たんだろう。

今なんて、その物語のコピーのコピーのコピーみたいなもんで、それは、どうしたって、あの時代の皆様に勝てるはずがないんだ。

人生の経験知じゃない。

そんなものでは太刀打ちできないような経験をたんまり持ち合わせている。

狂気とは、そうやって生まれてくるんだろう。

雨が降る。

雨音が一定のリズムを刻まないのは、きっと狂気を生みださないため。

世界は、少しずつ狂気を生みだすことを拒否し始めた。

そして、狂気のなくなった世界は、進化を辞め、静かに衰退の時間を刻み始める。

それは、規則正しい一定のリズムを刻む雨が降るまで続く。

その雨が降り注ぐ時、再び、世界は狂気に満ち満ちた素晴らしい世界になる。

人が死ぬ。

人が生まれる。

人が死ぬ。

人が死ぬ。

その時、誰を殺すのか。

誰が生まれるのか。

静かに瞳を閉じて、その雨の日まで、心を押し殺す事にしよう。

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