2013年1月8日 0:40 CAT :
       

神々のゲップ~後編~

【前回までのあらすじ】
昔、何が良かったのかさっぱりわからなかった、所謂「名曲」と呼ばれる作品たち。

あんなもの、歳とったおっさんが、回顧感に浸りながら、涙を流すだけの歌で、今の時代にはあわねぇんだよ。

と思っていた。

でも、自分が歳をとったおっさんになったとき、例えば「愛燦燦」を聞くと、例えば「上を向いて歩こう」を聞くと、例えば「やさしさに包まれて」を聞くと涙が溢れてくるようになってしまった。

これらの曲はきっと、年を重ね、経験を重ね、人生の悲喜交々をくぐり抜けたあとに、初めて本当の意味を理解できる曲なんだろうて。

やっと「昴」の本当の良さも分かってきました。

さてさて。

そんなこんなで、今日で最後にしてしまおう。

あの変な宗教勧誘のおかげで、なんかテンションが上がってしまった「神様考察」。

そろそろ飽きてきたしな。

と言う事で、最後に考えるべきなのは、やはり我が日本における「神道」をはじめとする神様信仰についてだ。

そもそも、まだ「一神教」と言う考え方が出来上がるはるか前から、人類は得体の知れない何かに対して、それらが自分たち以上の強大な力を持つ存在だとして、畏敬の念を込めて崇め奉った。

俗に言う「アニミズム」と言う奴だ。

日本では、ご存知のとおり、奈良時代に中国から「仏教」と言う宗教が入ってくるまでは、このアニミズムに傾倒した「神道」が主流であり、当時の実力者、蘇我氏と物部氏がそれぞれに、仏教と神道どちらが日本を治めていくに適していたかと競い合った過去がある。

結局、蘇我氏が勝つことで日本は国を挙げて「仏教」を信仰する事になるのだけれども、この段階では、あくまで「仏教」は政治の手段であり、今の創価学会の比じゃないくらい政治と癒着しちゃっていた。

では、その間に日本古来の神道は死滅したのかといえばそんな事はない。

むしろ、どうしても駆逐することのできなかった八百万の神と仏が共存すると言う、全く不思議な文化を作り上げてしまった。

この日本文化のお話も面白いんだけれども、今回は、あくまでもその中でも神様と言う事で、神道だけに絞ってみてく。

(仏教はあくまでも仏を信仰するものだし。


日本古来よりの神道でも、おそらくは、元々は、全世界的アニミズムと同じく、自分たちではどうしようもない強大な何かに対して畏敬の念を込めて崇め奉っていたのだろうけれども、それは日本の風土とともに少しずつ変化していった。

日本では、この世にあるもの全てに神が宿っており、そして、自分たちが常に神と接し、神によって生かされていると考えられてきた。

「八百万の神」ってヤツだ。

ついでに、事あるごとに神様を迎えて、祭りを行うようになる。

言ってみれば、神様は、自分たちと生活を共にする身近な存在になっていったとか、そんな話らしい。

お花見は、田んぼの神様「さ」がくる季節咲く花「さくら」(ちなみに、「さ」が来る頃に咲く花だから「さくら」というらしい)の下で、「さ」とともに酒を飲んで綺麗な花を愛でることで、一年の豊作を願うお祭りが形骸化したものだし、逆に、秋祭りは、その「さ」が帰るときに、その豊作の感謝と来年の豊作を願うお祭りだったりする。

モノを大切にすることで、付喪神と言う神様がやどるとも言われ、それを捨ててしまうことで、神様の宿る体がなくなることから「勿体無い」と言う言葉も生まれた。

自分たちのふるさとにも、自然にも、住む家にも、日常使うものどころか、厠や道端に落ちている石ころにさえ神様が宿っており、それらを大切にすることで、その神様が自分たちを守ってくれると考えていた。

神様となるものは、その多くが、死んでいったご先祖様であり、そのご先祖が神様に姿を変え、年に何度か戻ってくることを、心から喜び、最大限のもてなしと共に、祭りを開催していた。

自分たちが生きているという事は、数多くのご先祖様が存在しているからであり、そうして生きている今日を自分の身の回りにあるどんなものにでも感謝しながら過ごす。

自分以外の生き物にも、同等の命があり、神が宿っていると考え、大切にする。

その数限りない感謝の形が、日本の神道の根底にはあると思う。

そんな尋常じゃなく素晴らしい日本に残る文化を心の底から尊敬し、素晴らしいと強く強く思うようになっちゃったんだよな。

日本人として、体に刻み込まれたこの感覚が生きている以上は、それ以上の宗教やら、神やらなんて存在しないんじゃあないかとか思ってしまう。

それは別に、海外で生まれたそれぞれの文化や、神を否定するわけじゃあない。

それらはもちろん、その国々において生まれた大切で素晴らしい文化であり、敬うべきものだ。

けれども、日本人として生まれてきて、この感覚を持っているくせに、キリスト教ってそれはどうだろう?とかね。

そんな事を思っているわけですよ。

「父なる存在」を敬う前に、本当の父でも敬っておけ。

その父の父やさらにその父に思いでも馳せてみろとね。

「インテリジェントデザイン」ではなく、本当に神と呼ぶべき存在はまさにそこにこそ存在していると、オレは思っておるわけですよ。

まぁ、3日かけてつらつら書いてきたけど、要するに、オレが言いたかったことは、「チョンはさっさと、失業率も凄いことになってる、偉大な自国へ帰れ。

そして、二度とこっち向くな」と言う事・・・らしい。

うむ。

久々に、長々と書ききってやったよ。

じゃあの。

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