2025年7月12日 12:12 CAT :
       

ストロベリーソングオーケストラさんのアルバムレビューを全力でやってみるよ~その2「血の濫觴」

前回、ストロベリーソングオーケストラの新譜「夜儿、あらわる!」についての感想を書いた

次は「切り裂きジャップ」だなと思ってたんだけど・・・よく考えるとそもそも「血の濫觴」と言う傑作アルバムについて書いてなかった事に気が付いた。

と言うか、前の記事の関連記事で出てきてた初めてこのアルバムに触れた時の記事に、「その内全曲レビュー書くよ」と書いてたのに、それ書いてないじゃねえか。

そりゃあ、いかんですよ。

このアルバムを避けて、ストロベリーソングオーケストラを語るなんて、愚の骨頂。

個人的にはこのアルバムの存在こそが、のちにストロベリーソングオーケストラと言うジャンルが形成されるターニングポイントだとさえ思ってる。

筋肉少女帯における「月光蟲」や「パノラマ島」、犬神サアカス團における「暗黒残酷劇場」のような最重要作品なんだよ。

と言う事で、予定を変更して今回はこの超傑作アルバム「血の濫觴」について書いていこうじゃあ、あぁりませんか。

ストロベリーソングオーケストラと言うバンドの説明をする際に、最も名刺代わりになるアルバムがこの「血の濫觴」なのは間違いない。

この作品が刺さらねぇようなセンスのない奴は、多分、他のどの怨源を聴いても意味ねぇよ。と言うくらい、ストロベリーソングオーケストラのステレオタイプとも言うべき作品。

これ以前の作品と比べると、明らかにこのアルバムで方向性が決定した感さえある。

とは言え、このアルバムではまだ何となく手探りと言うか、これ以前の作風との間で揺れ動く感じが無くもない。

その意味では、今回の新譜「夜儿、あらわる!」で本当の意味でのストロベリーソングオーケストラと言うジャンルは完成したんじゃないかと個人的には感じている。

ただ、それはこのアルバムが未完成だったと言う話では全くない。

このアルバムの完成度はおかしい。

全てにおいて完璧。

実際、オレが初めてストロベリーソングオーケストラに触れたのはこのアルバムだったんだけど、それ以降どれを聴いても「めっちゃ良いんだけど、やっぱり血の濫觴が良いなぁ」と思ってた。

そのくらいこのアルバムの完成度が群を抜いてる。

「電波大放送」から「狂れた埋葬虫、電波、赤マント!」「非傀儡宣言」へとつながる展開の凄さをまずは経験してほしい。

そうなんだよ。ストロベリーソングオーケストラの代表曲とも言える名曲の数々が当たり前のようにこのアルバムには収録されてるんだよ。

それはまさに筋肉少女帯の代表曲の数々が当たり前に収録されている「月光蟲」かのような感じ。

え?「僕の宗教へようこそ」も「ルリヲ」も「グリグリメガメ」も「バントライン」も入ってるんですか?え、ウソでしょ「イワンのバカ」も入ってるんですか?・・・なんだよ。分かってもらえるかは知らんけど。

作品全体に流れる雰囲気は、寺山修司、まさに天井桟敷なんだけど、要所要所に江戸川乱歩が見え隠れしている。

エディのフォロワーだろと言う感じのピアノの旋律に、バイオリンやら三味線やらが重なり、男女のトリプルボーカルに劇団員さんのポエトリーリーディングをはじめとした寸劇が至る所に挟み込まれる。

ひとつの演劇作品のようなアルバム。

三味線などの効果もあるのか、どことなく漂う和の空気感もこのアルバムの持ち味。

それが犬神サアカス団の「恐山」のような、重苦しい日本の閉塞感を唄っている訳でもない。

イメージとしては、昭和の日本なんだろうね。実に変な気持ちになる。

って言うか、天井桟敷なんだよ。

ただそれだけじゃあない。

日本と言う国の闇や閉塞感、絶望、不条理を鏡町と言う別空間から客観的に眺めているかのような奇妙な世界観。

寺山修司と言う作家さん自体が、それに近い事をしていたとも言えるならば、それを現代に蘇らせたとも言えるかも知れない。

こんなのオレがハマらない訳ないじゃないか。

1枚を通して聴くと様々なジャンルの曲が入り乱れているんだけど、その根底には謎の一体感があり、ともすればバラバラになってしまいそうな楽曲群が奇跡的な危ういバランスで寄り添って、途轍もなく大きな偶像を作り出している。

その緊張感もこのアルバムの魅力の一つではあると思う。

凄いアルバムなんですよ。

ホントに。

宮悪座長の強烈な思いが入った、大曲「胞衣の劇場」、「血の軌跡が故の慟哭」の2曲でこのアルバムは終わる。

全てを聴き終わった時には、きっと鏡町からもう戻ることは出来ないだろう。

このアルバムがリリースされたのは2009年。

それ以降、「切断ダリア」や「二十一世紀狂闘旗手」のように1曲単位では途轍もない曲はあったとしても、1枚のアルバムとしての完成度では、この「血の濫觴」を超える作品は無いと思ってた。

このアルバムにはきっと「初期の筋肉少女帯みたいだね」とか「人間椅子を思い出すね」とか「犬神サアカス團好きな人は絶対はまる」みたいな事を言う人がいるはず。

「寺山修司が好きなら絶対聞く価値がある。」とも言われるかもしれない。

それが良いのか悪いのかは分からない。

少なくともこのアルバムの評価の一側面を照らし出す言葉ではあるだろうけど。

「血の濫觴」リリースから15年を経て、遂に鏡町の行きつく先が少しだけ垣間見える事になる。

15年後の今、顧みると、その道を切り開くきっかけとなり、サーチライトとしてその道を煌々と照らし続けたのは誰が何と言おうとも、この「血の濫觴」と言う作品であることに異論の余地はないと思う。

少なくとも「夜儿、あらわる!」に対して、「初期の筋肉少女帯みたいだね」と言う人なんているはずない。

ストロベリーソングオーケストラと言うジャンルの完成形が「夜儿、あらわる!」だよみたいな事を、この前の感想で書いたけど、それは本当にそうだと思う。

ただ、その事実が「血の濫觴」と言う大名作の名に1ミリたりとも傷をつけることは無い。

それくらいこのアルバムは偉大だと思ってる。

何と言うかね、こんな作品に出会えたことにただただ感謝しておるのですよ。

本当は、1曲ごとの感想を書こうと思ってたんだけど、何か「このアルバムについて」みたいな事だけで、めっちゃ長くなってしまったので、今日はここまでにしておきます。ハイ。

ちなみに「濫觴」と言う言葉の意味は、「物語の起源」とか「流れの最初」みたいな意味。

「血の濫觴」と言うタイトル自体は、多分、このアルバム自体のテーマにもなっているだろう「宮悪座長の中に流れるドロドロとどす黒い何かの源流となったもの」的な意味合いだったんだと思う。

ただ、15年経ってから改めて考えてみると、ストロベリーソングオーケストラと言う狂気の集団の「血の濫觴」だったんだろうね。

そこまで考えた上での「濫觴」だったのであれば、もうそれはただ脱帽するしかない訳ですけれども・・・

そんな感じで今回は終わりにします。

いやしかし、思いが強すぎて1回が長すぎる・・・

こんなペースで描いてたら指が腱鞘炎になるわ。

今度こそ「切り裂きジャップ」について書こうと思ってたけど、そんな感じだから、もう少し小出しにしようかな・・・などなど・・・考えております。

多分・・・

近日中に・・・

生きていれば・・・

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