2010年7月29日 20:42 CAT :
       

生き残るやつは誰だ

絵を描くことも、物語を書くことも、文章を書くことも、曲を書くことも結局のところ、自分と言う存在を吐き出している行為だと気付く。

例えば、筋肉少女帯の曲を聴いて、こんな曲を書きたい。

と心の底から思ったとしよう。

そうやって、圧倒的に筋肉少女帯(オレの場合はおいちゃん)を意識して書いた曲であっても、完成したものは、元のものとは似て藻に付かぬ曲。

どう考えたって、オレの頭からひり出されただろう癖が随所にちりばめられた曲になってしまう。

自分と言うフィルター。

前作「ぬるま湯ガリクソン」と言うアルバムに入ってる「イカサマサイコロ ダイスマン」と言う曲は、90年代の最高にかっこ良かったGLAYをイメージして書いた。

と言うか、もうコレでもかとパクッた位の心持で居た。

昨日、少々くろすけ様様とその話してて、「カッコエエ曲やと思うけど、GLAYとは思わんかった。」と言われる始末。

それが、多分浄化するどころか、余計に汚してしまうだけの自分と言うフィルター。

前に、完コピの模写が出来ない事で、やれ絵心が無いだの、努力が足りないだの言われた事がある。

ただ、最近になって思う事は、オレがこの先どれだけ色んな努力をしたって、人の作ったものを完全にコピーなんか出来ないだろう。

と言う事。

どうしたって、自分と言うフィルターを通してしまうわけだから。

完コピが必要なら、コピー機でも使えば良い。

それをオレにやらす以上は、オレの色に変えてしまう。

そう言う、どうしようもない強い個性と言うものがあるんだよ。

多分ね。

自分の中に、何の衝動も持ち合わせてない、うんこちんちんは、せいぜいそこら辺の誰かの強烈な個性と衝動に憧れて、それの模写でもしていれば良い。

オレは、昔からコピーや模写が大嫌いだったんだから。

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