2010年8月5日 21:36 CAT :
       

では愛とやらを見たものはあるのか

そして、気分カテゴリーで1000件目の記事だ。

書きも書いたり1000件。

もし、初めてこのブログを目にするヤツが居たとして、この気分カテゴリーだけで、全部に目を通すには1000個もうんこくさい記事を読まなければいけないという寸法だ。

凄まじく、時間の無駄だから、やめろと忠告したい。

ダービー風に言うのであれば、そう忠告したい。

さてさて、先日、凄く理想的なパンチラを見て、何だかテンションの上がってしまった志茂田さんです。

きっと、パンチラは癒しなんだ。

いやらしいじゃなくて、癒しだ。

最近ふと思う事を。

この世の中には、「愛」やの「戦争」やのばかりが溢れ腐っていたりする。

興味を引けばそれで良いのかと思うように、無節操に出来事たちが乱舞している中で、そろそろ、その一つ一つの意味について、冷静に考えなければいけない時が来ているんじゃあないだろうか。

例えば、虐待。

テレビで垂れ流されている幼児虐待。

そして、死。

を、ただリアルに想像してみるとする。

つい最近の例を考えるのであれば、3歳と1歳の子どもを部屋に閉じ込め、部屋から出られないように、ドアをテープで雁字搦めにしていたとか。

そうやって、幼い2人の子どもを餓死させた母親は、この2人が、悪臭漂うゴミまみれの部屋で少しずつ弱っていく様の一遍だけでも、想像できなかったのだろうか。

それは、キッと、言葉で語られるより遥かに凄惨な状況だと思う。

もしかしたら、餓死寸前になって、泣き喚く1歳の子どもを「ママはもう来るからね。」と言いながら3歳の子どもが慰めていたかもしれない。

もしかしたら、どちらかが先に死んでしまい、その死体が朽ちていくのを幼い眼に焼付け、そうであっても「死ぬ」こと自体を明確に理解できないまま、死んでいったかもしれない。

その状況を少しだけでも、想像してみた時、オレは、涙が止まらなくなるんだって。

赤の他人で、それこそ、何の関係もない家族ではあったとしても、悲しくなってしまうんだって。

その子ども達に一体何の罪があったと言うんだろう。

その母親が子ども達と等しくか、それ以上に残虐な死刑になれば良いと心の底から願って止まない。

そんな、やりマンの腐れまんこが死んだとて、社会において何のマイナスも無いのだろうから。

垂れ流される情報。

その言葉一つ一つと真摯に向き合い、一つ一つの状況を頭の中でしっかり再現できるだけの想像力さえあれば、キッと起こりはしないのだろう悲しいお話が今、この世には、蔓延しまくっている。

ただ想像する。

そんな事さえ出来ない人間に、一体何が出来るというのか。

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